・・・山霧深うして記号標の芒の中に淋しげなる、霜夜の頃やいかに淋しからん。 これより下り坂となり、国府津近くなれば天また晴れたり。今越えし山に綿雲かゝりて其処とも見え分かず。さきの日国府津にて宿を拒まれようやくにして捜し当てたる町外れの宿に二・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・赤い砂岩の小さな墓標には "For now we see in a glass darkly, but then face to face." と刻してある。その後ウェストミンスター・アベーに記念の標石を納めようという提議が大学総長や王立協・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・雪江はいそいそしながら、帯をしめていた。顔にはほんのり白粉がはかれてあった。「ほう、綺麗になったね」私はからかった。「そんな着物はいっこう似あわん」桂三郎はちょっと顔を紅くしながら呟いた。「いくらおめかしをしてもあかん体や」彼は・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ やがて弁当の支度を母親に任かして、お絹は何かしら黒っぽい地味な単衣に、ごりごりした古風な厚ぼったい帯を締めはじめた。「ばかにまた地味づくりじゃないか」道太がわざと言うと、お絹は処女のように羞かんでいた。 道太は今朝辰之助に電話・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・吉田も井伊も白骨になってもはや五十年、彼ら及び無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を今日の位置に達せしめた。日本もはや明治となって四十何年、維新の立者多くは墓になり、当年の書生青二才も、福々しい元老もしくは分別臭い中老になった。彼らは老・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・「ホホン、そりゃええ、“中央集権”で、労働者をしめあげて――」 ある晩、町のカフェーで、学生たちと論争したとき、そのときは酔ってもいたが、小野はあいてのあごの下に顔をつきだしながらいった。「――それで、諸君が、レーニンさんになん・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 砂町では○元〆川○境川おんぼう堀。その他。 こんな事を識すのも今は落した財布の銭を数えるにも似ているであろう。 ○ 東京の郊外が田園の風趣を失い、市中に劣らぬ繁華熱閙の巷となったのは重に大正十二年震災・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中の空想から消去って、夜晩く行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹をゆする響に、伝通院の鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の下に、私は母と乳母とを相手に、暖い炬燵にあ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・洋琴の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩やむ能わざらしめたる極ついに彼をして天に最も近く人にもっとも遠ざかれる住居をこの四階の天井裏に求めしめたのである。 彼のエイトキン夫人に与えたる書・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・女が五人に男が二人、〆めて七人、それで一番上の子供が十三ですから赤ん坊に至るまでズッと順よく並んでまあ体裁よく揃っております。それはどうでも宜しいがかように子供が多うございますから、時々いろいろの請求を受けます。跳ねる馬を買ってくれとか動く・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
出典:青空文庫