・・・ 昔から喉の渇いているものは、泥水でも飲むときまっている。小えんも若槻に囲われていなければ、浪花節語りとは出来なかったかも知れない。「もしまた幸福になるとすれば、――いや、あるいは若槻の代りに、浪花節語りを得た事だけでも、幸福は確に幸福・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・確か土岐哀果氏の歌に、――間違ったならば御免なさい。――「遠く来てこの糞のよなビフテキをかじらねばならず妻よ妻よ恋し」と云うのがある。彼はここへ来る度に、必ずこの歌を思い出した。もっとも恋しがるはずの妻はまだ貰ってはいなかった。しかし古着屋・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・その時先頭にいた馬は娘の華手な着物に驚いたのか、さっときれて仁右衛門の馬の前に出た。と思う暇もなく仁右衛門は空中に飛び上って、やがて敲きつけられるように地面に転がっていた。彼れは気丈にも転がりながらすっくと起き上った。直ぐ彼れの馬の所に飛ん・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 出口のところで、フレンチが靴の上に被せるものを捜しているときになって、奥さんはやっと臆病げに口を開いた。「あなた御病気におなりなさりはしますまいね。」 フレンチは怒が心頭より発した。非常なる侮辱をでも妻に加えられたように。・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ここへ来たのは、金石の港に何某とて、器具商があって、それにも工賃の貸がある……懸を乞いに出たのであった―― 若いものの癖として、出たとこ勝負の元気に任せて、影も見ないで、日盛を、松並木の焦げるがごとき中途に来た。 暑さに憩うだけだっ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 人里を離れてキィーキィーの櫓声がひときわ耳にたつ。舟津の森もぼうっと霧につつまれてしまった。忠実な老爺は予の身ぶりに注意しているとみえ、予が口を動かすと、すぐに推測をたくましくして案内をいうのである。おかしくもあるがすこぶる可憐に思わ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ろしければかねて手道具は高蒔絵の美をつくし衣装なんかも表むきは御法度を守っても内証で鹿子なんかをいろいろととのえ京都から女の行儀をしつける女をよびよせて万事おとなしく上品に身ぶるまいをさせて居たので今ときめいて居らっしゃる誰さんのおよめさん・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・お忙がしいでしょうから二十分位と断って会うときでも、やはり二、三時間も長座をするのが常例だった。 夏目さんは好く人を歓迎する人だったと思う。空トボケた態度などを人に見せる人ではなかった。それに話が非常に上手で、というのは自分も話し客にも・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・そこで私が先日東京へ出ましたときに、先生が「ドウです内村君、あなたは『基督教青年』をドウお考えなさいますか」と問われたから、私は真面目にまた明白に答えた。「失礼ながら『基督教青年』は私のところへきますと私はすぐそれを厠へ持っていって置いてき・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・さよ子は、電車の往来しているにぎやかな町にきましたときに、そのあたりの騒がしさのために、よい音色を聞きもらしてしまいました。これではいけないと思って、ふたたび静かなところに出て耳を澄ましますと、またはっきりと、よい音が聞こえてきましたから、・・・ 小川未明 「青い時計台」
出典:青空文庫