・・・ といって先に立つと、提灯を動かした拍子に軒下にある物を認めた。自分はすぐそれと気づいて見ると、果たして亡き人の着ていた着物であった。ぐっしゃり一まとめに土塊のように置いてあった。「これが奈々ちゃんの着物だね」「あァ」 ふた・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・とその坊さんに力をつけて案内して家にかえると夫婦で立って来て小吟の志をほめ又、旅人もさぞお困りであったろうと萩柴をたいていろいろともてなした。法師はくたびれて居てどうもしようがなかったのをたすけられてこの上もなくよろこび心をおちつけて油単の・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・そして、拍子を合わせて、二度、三度羽ばたきをしました。これから、長旅に出かける前のあいさつであります。 つぎの瞬間に、彼らは、空へ舞い上がりました。そして、池の上を、なつかしそうに一周したかと思うと、ここを見捨てて、陣形を造って、たがい・・・ 小川未明 「がん」
・・・ 徒らに、笑わせたり、面白がらせたりすることを目的とする者は、芸術への奉仕でなく、所謂、職業話術家のなすことであります。自分の書いたものが、どういう階級の子供達に読まれるか、恐らく、金持の家の子供達にも貧乏な家の子供にも読まれることゝ思・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
・・・そこに深い社会奉仕の尊さが潜んでいると思う。 大学の教授たちが自分の専門に没頭して、只だそれを伝えると云うような事以外に、小学校の先生には更に教うる生徒に対して深い愛情がなければならぬ。 然し乍ら私は現在の小学校の先生方が皆かくの如・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・それは、ちょうど真理に奉仕する殉教者のように、また深い信仰を有する人が神について惑わないように、刹那まで安心して微笑んでいるでありましょう。 かくて太平和の家庭にあっては、命あるものは、みんな同情し合うであろう。ストーヴにあたっている猫・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・「私もね、これでも十二三のころまでは双親ともにいたもんだが、今は双親はおろか、家も生れ故郷も何にもねえ、ほんの独法師だ、考えてみりゃ寂しいわけなんさね。家といったってどうせ荒家で、二間かそこいらの薄暗い中に、お父もお母も小穢え恰好して燻・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・仮令見ても見ないでも、必ず枕許に五六冊の本を置かなければ寝られないので、その晩も例の如くして、最早大分夜も更けたから洋燈を点けた儘、読みさしの本を傍に置いて何か考えていると、思わずつい、うとうととする拍子に夢とも、現ともなく、鬼気人に迫るも・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・ その拍子に、粗末な鏡台が眼にはいった。背中を向けて化粧している女の顔がうつっていた。案の定脱衣場で見た顔だった。白粉の下に生気のない皮膚がたるんでいると、一眼にわかった。いきなり宿帳の「三十四歳」を想い出した。それより若くは見えなかっ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・すると提げていた氷が小さくなって縄から抜けて落ちた拍子に割れてしまった。驚いて拾い上げたが、もう縄に掛らなかったので、前掛けに包んで帰ろうとすると、石段につまずいて倒れた。手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻され・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫