・・・裁判所の裏口から、一歩そとへ出ると、たちまち吹雪が百本の矢の如く両頬に飛来し、ぱっとマントの裾がめくれあがって私の全身は揉み苦茶にされ、かんかんに凍った無人の道路の上に、私は、自分の故郷にいま在りながらも孤独の旅芸人のような、マッチ売りの娘・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・往来に、あるいは佇み、あるいはながながと寝そべり、あるいは疾駆し、あるいは牙を光らせて吠えたて、ちょっとした空地でもあるとかならずそこは野犬の巣のごとく、組んずほぐれつ格闘の稽古にふけり、夜など無人の街路を風のごとく、野盗のごとくぞろぞろ大・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・ものも、その間に綺麗さっぱり無くなっていて、いまは親戚一同から厄介者の扱いを受け、ひとりの酒くらいの伯父が、酔余の興にその家の色黒く痩せこけた無学の下婢をこの魚容に押しつけ、結婚せよ、よい縁だ、と傍若無人に勝手にきめて、魚容は大いに迷惑では・・・ 太宰治 「竹青」
・・・冬になればこのへんはほとんど無人境になるそうであるから。 そう言えば、すずめもいっこうに見かけない。御代田へんまで行くとたくさんいるそうである。このすずめの分布は五穀の分布でだいたいは説明ができそうである。人間は金のある所へ寄るが鳥獣の・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・いちばん恐ろしかったのは奄美大島の中の無人の離れ島で台風に襲われたときであった。真夜中に荒波が岸をはい上がってテントの直前数メートルの所まで押し寄せたときは、もうひと波でさらわれるかと思った。そのときの印象がよほど強く深かったと見えて、それ・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・ それで鉄の鶴は無人の境を行くようにどこまでも単調な挙動を繰返しながら一直線に進んで行くのである。 そのうちに向うから大きな荷物自動車が来た。何かしら棍棒のようなものを数十ずつ一束にしたものを満載している。 近づいてみると、その・・・ 寺田寅彦 「夢」
・・・ この目的のためには市中において放水路の無人境ほど適当した処はない。絶間なき秩父おろしに草も木も一方に傾き倒れている戸田橋の両岸の如きは、放水路の風景の中その最荒凉たるものであろう。 戸田橋から水流に従って北方の堤を行くと、一、二里・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・二人は煢々として無人の境を行く。 薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を蔽うている。身を横にしても、草に触れずに進む訳には行かぬ。触れれば雨に濡れた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣に、白の股引に、足袋と脚・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・かつて私の或る知人が、シベリヤ鉄道の旅行について話したことは、あの満目荒寥たる無人の曠野を、汽車で幾日も幾日も走った後、漸く停車した沿線の一小駅が、世にも賑わしく繁華な都会に見えるということだった。私の場合の印象もまた、おそらくはそれに類し・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・大工のみにかぎらず、無尽講のくじ、寄せ芝居の桟敷、下足番の木札等、皆この法を用うるもの多し。学者の世界に甲乙丙丁の文字あれども、下足番などには決して通用すべからず。いろはの用法、はなはだ広くして大切なるものというべし。 然るに不思議なる・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
出典:青空文庫