・・・また画そのものも、ただ濁った水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。 その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・駅員らは何か話合うていたらしく、自分の切願に一顧をくれるものも無く、挨拶もせぬ。 いかがでしょうか、物の十分間もかかるまいと思いますから、是非お許しを願いたいですが、それにこのすぐ下は水が深くてとうてい牛を牽く事ができませんから、と自分・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・一台の自動車が、それを避けている私には一顧の注意も払わずに走り過ぎて行った。しばらく私はぼんやりしていた。自動車はやがて谿襞を廻った向こうの道へ姿をあらわした。しかしそれは自動車が走っているというより、ヘッドライトをつけた大きな闇が前へ前へ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・しかし一つ一つの形は自然科学には一顧の価もない。しかし精神科学では個性的なものが最も価あるものである。フリードリッヒ大王や、ゲーテの事蹟は斯学の対象として、いつまでも研究をつづけていかれる。 社会主義の倫理観は一種の社会的幸福主義である・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・これは少なくとも一顧に値するだけの問題にはなると思う。 私はこれらの問題をいつかもう少し立ち入って考えてみたいと思っている。この一編はただ一つの予報のようなものに過ぎない事を断わっておきたい。・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・漆喰が stucco と兄弟だとすると、この説にも一顧の価値があるかもしれない。ついでに (Skt.)jval は「燃える」である。「じわりじわり」に通じる。 なすの「しぎ焼き」の「しぎ」にもいろいろこじつけがあるが、「しき」と変えてみ・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
出典:青空文庫