・・・と言えども色に出づる不満、綱雄はなおも我を張りて、ではありますが、これが他人ならとにかく、あなたであって見れば私はどこまでも信ずるところを申します。私は強いてお止め申さんければならぬ。 黙らっしゃい。と荒々しき声はついに迸りぬ。私はもう・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・かれの説によれば、貴嬢はもと心順なる少女なれば境によりてその情を動かすがゆえに南洋丸に乗せて一年が間、浮世の風より救い出さば必ず御顔にふさわしき天津乙女となりたもうとの事なり、われはたやすくこれを信ずるあたわざるのみ。 十蔵はその片目を・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ そして、この働きざかりのときにおいて、あるいは人道のために、あるいは事業のために、あるいは恋愛のために、あるいは意気のために、とにかく、自己の生命より重いと信ずるあるもののために、力のかぎり働いて、倒れてのちやまんとすることは、まず死・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・自分の作った人生観さえ自分で信ずることの出来ない私であるから、まして他人の立てた人生観など、そのまま受け入れることの出来るものは一つもない。何ものをも批評するのが先になって、信ずることが出来ない、讃仰することが出来ない。信じ得る人の心は平和・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ この群の跡から付いて来た老人は今の青年の叫声を聞くや否や、例のしっかりした、早い歩き付きで二足進んで、日に焼けた顔に思い切った幅広な微笑を見せて、人の好げた青い目を面白げに、さも人を信ずるらしく光らせて、青年の前に来て、その顔を下から・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 彼は、これまでかつて人を信ずることの出来なかった、哀れな人間です。彼はしたいままの乱暴をしました。そうしておいて自分の命を少しでも長く盗むために、あらゆる人を疑りました。そのためには多くの人をどんどん殺したり押しこめたりしました。です・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・芸術が自由であれば、それだけ高く昇騰すると信ずることは、凧のあがるのを阻むのは、その糸だと信ずることであります。カントの鳩は、自分の翼を束縛する此の空気が無かったならば、もっとよく飛べるだろうと思うのですが、これは、自分が飛ぶためには、翼の・・・ 太宰治 「鬱屈禍」
・・・ つまらない事ではあるが、拘留された俘虜達が脱走を企てて地下に隧道を掘っている場面がある、あの掘り出した多量な土を人目にふれずに一体どこへ始末したか、全く奇蹟的で少なくも物質不滅を信ずる科学者には諒解出来ない。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・紅雨は生涯忘れない美的感激の極度を経験したと信ずる巴里の有名なる建築物に対した時の心持に思い較べて、芝の霊廟はそれに優るとも決して劣らぬ感激を与えてくれた事を感謝した。そればかりでなく、彼はまた曲線的なるゴチック式の建築が能くかの民族の・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・世間は学校の採点を信ずるごとく、評家を信ずるの極ついにその落第を当然と認定するに至るだろう。 ここにおいて評家の責任が起る。評家はまず世間と作家とに向って文学はいかなる者ぞと云う解決を与えねばならん。文学上の述作を批判するにあたって批判・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
出典:青空文庫