・・・やや旧派の束髪に結って、ふっくりとした前髪を取ってあるが、着物は木綿の縞物を着て、海老茶色の帯の末端が地について、帯揚げのところが、洗濯の手を動かすたびにかすかに揺く。しばらくすると、末の男の児が、かアちゃんかアちゃんと遠くから呼んできて、・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・大正池からそこまで二里に近い道程を山腹に沿うて地中の闇に隧道を掘り、その中を導いて緩かに流して来た水を急転直下させてタービンを動かすのである。この工事を県当局で認可する交換条件として上高地までの自動車道路の完成を会社に課したという噂話を同乗・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・黄楊の小櫛という単語さえもがわれわれの情緒を動かすにどれだけ強い力があるか。其処へ行くと哀れや、色さまざまのリボン美しといえども、ダイヤモンド入りのハイカラ櫛立派なりといえども、それらの物の形と物の色よりして、新時代の女子の生活が芸術的幻想・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・唯欲し相にして然かも鼻をひくひくと動かす犬を見て太十は独で笑うのである。赤は恐ろしい人なつこい犬である。後足で立って前足を胸に屈めていつまででも立つことが出来た。そうして何か欲しいといっては長い舌を出してぺろりぺろりと自分の鼻を甞めた。太十・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚の唇をぴりぴりと動かす。「今日のみの縁とは? 墓に堰かるるあの世までも渝らじ」と男は黒き瞳を返して女の顔を眤と見る。「さればこそ」と女は右の手を高く挙げて広げたる掌を竪にランスロットに向ける・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・道を歩く時にも、手を一つ動かす時にも、物を飲食する時にも、考えごとをする時にも、着物の柄を選ぶ時にも、常に町の空気と調和し、周囲との対比や均斉を失わないよう、デリケートな注意をせねばならない。町全体が一つの薄い玻璃で構成されてる、危険な毀れ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 労働者たちは、その船を動かす蒸汽のようなものだ。片っ端から使い「捨て」られる。 暗い、暑い、息詰る、臭い、ムズムズする、悪ガスと、黴菌に充ちた、水夫室だった。 病人は、彼のベッドから転げ落ちた。 彼は「酔っ払って」いた。・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・下等士族もまた給人分の輩は知らぬことなれども彼の一条は云々、とて、互に竊に疑うこともあり憤ることもありて、多年苦々しき有様なりしかども、天下一般、分を守るの教を重んじ、事々物々秩序を存して動かすべからざるの時勢なれば、ただその時勢に制せられ・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・物懐しげに人の心を動かす響なり。初めは遠く、次第に近く、終にはその音暖かに充ち渡りて、壁隣の部屋より聞ゆる如音楽だな。何だか不思議に心に沁み入るような調べだ。あの男が下らぬ事を饒舌ったので、己まで気が狂ったのでもあるまい。人の手で弾くヴァイ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・余は四、五日前より容態が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両脚が俄に水を持ったように膨れ上って一分も五厘も動かす事が出来なくなったのである。そろりそろりと臑皿の下へ手をあてごうて動かして見ようとすると、大磐石の如く落着いた脚は非・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
出典:青空文庫