・・・ 宵から、銀座裏の、腰掛ではあるが、生灘をはかる、料理が安くて、庖丁の利く、小皿盛の店で、十二三人、気の置けない会合があって、狭い卓子を囲んだから、端から端へ杯が歌留多のようにはずむにつけ、店の亭主が向顱巻で気競うから菊正宗の酔が一層烈・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・……しかも真中に、ズキリと庖丁目を入れた処が、パクリと赤黒い口を開いて、西施の腹の裂目を曝す…… 中から、ずるずると引出した、長々とある百腸を、巻かして、束ねて、ぬるぬると重ねて、白腸、黄腸と称えて売る。……あまつさえ、目の赤い親仁や、・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇でもございまするしね、怠け仕事に板前で庖丁の腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯がとれますよ。」と縁へはみ出るくらい端近に坐ると一緒に、其処にあった塵を拾って、ト・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ただ吹雪に怪飛んで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、媼巫女は、台所の筵敷に居敷り、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、破鍋のかかったのが、阿鼻とも焦熱とも凄じい。……「さ、さ、帯を解け、しての、死骸を俎の上へ、」という・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 御存じの方は、武生と言えば、ああ、水のきれいな処かと言われます――この水が鐘を鍛えるのに適するそうで、釜、鍋、庖丁、一切の名産――その昔は、聞えた刀鍛冶も住みました。今も鍛冶屋が軒を並べて、その中に、柳とともに目立つのは旅館であります・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ 梅水は、以前築地一流の本懐石、江戸前の料理人が庖丁をさびさせない腕を研いて、吸ものの運びにも女中の裙さばきを睨んだ割烹。震災後も引続き、黒塀の奥深く、竹も樹も静まり返って客を受けたが、近代のある世態では、篝火船の白魚より、舶来の塩鰯が・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・と襷がけのまま庖丁を、投げ出して、目白鳥を掌に取って据えた婦は目に一杯涙を溜めて、「どうしましょう。」そ、その時だ。試に手水鉢の水を柄杓で切って雫にして、露にして、目白鳥の嘴を開けて含まして、襟をあけて、膚につけて暖めて、しばらくすると、ひ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・大きな台の上で、男が、三人も並んで、ぴかぴか光る庖丁で鶏の肉を裂き、骨をたたき折っていました。真っ赤な血が、台の上に流れていました。その台の下には、かごの中で他の鶏が餌を食べて遊んでいました。 鳥屋の前に、二人の学生が立って、ちょっとそ・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・娘は、その一ぴきを晩のさかなにしようと庖丁をいれました。魚の肉は、雪よりも白く、冷たかったのです。そして、腹を割ると、真っ赤な、桃のつぼみが出たと思いました。「どこで、桃のつぼみを、のんだのだろう。」といって、娘は、つまみ上げてから、「・・・ 小川未明 「海のまぼろし」
・・・じめてうろたえているように見えたが、聴けばもうそれで四十年近くも食物商売をやっているといい、むっちりと肉が盛り上って血色の良い手は指の先が女のように細く、さすがに永年の板場仕事に洗われた美しさだった。庖丁を使ったり竹箸で天婦羅を揚げたりする・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫