・・・それは母の声そっくりと言いたいほど上手に模してあった。単なる言葉だけでも充分自分は参っているところであった。友人の再現して見せたその調子は自分を泣かすだけの力を持っていた。 模倣というものはおかしいものである。友人の模倣を今度は自分が模・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・それは単なる皺でした。然し私の気がついたのはそれが一時的の皺ではないことでした。とにかく些細なことでした。然し私はそのときも自分のなにかがつかれたような気がしたのです。私は自分にもいつかそんなことを思ったときがあると思いました。確かにあった・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・正義をもって社会悪を克服するという倫理的な根拠なくして、単なる物的必然力によって、人間は犠牲的奉仕にまで感奮することは出来るものではない。 倫理思想は内側から社会を動かす原動力である。そして倫理学はその実践への機を含んでしかも、直接に発・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 読書とは単なる知性の領域にある事柄ではない。それは情意と、実践との世界に関連しているのである。特に東洋においては、それはむしろ実践のためにあるものなのであった。 しかしながら前にも述べた如く、良書とは自分の抱く生の問いにこたえ得る・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ 一方では、物置きなどへは持って行った記憶がないのを十分知っていながら、単なる気持を頼って、暗い、黴臭い物置きへ這入って探しまわった。「あんた、私の留守に誰れぞ来た!」 おず/\彼女は清吉の枕元へ行って訊ねた。「いや。誰れも・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・「資本主義は、極く少数の特に富有で強力な国家を極端まで押しやり、それらの少数国家は、世界住民の約十分ノ一か、多く見積って高々五分ノ一しか擁しないに拘らず、単なる『利札切り』で全世界を掠奪しているのである。」 だから××××戦争は、掠奪者・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・而してその当然の解釈が、信ぜず従わずをもって単なる現状の告白とせず、進んでこれを積極の理想とするに傾くとすれば、これも私には疑惑圏内の一要素となるばかりで、最後の解決とはならない。 かくのごとくしていわゆる人生観上の自然主義も私には疑い・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・僕は恥辱を忍んで言うのだけれど、なんの為に雑誌を作るのか実は判らぬのである。単なる売名的のものではなかろうか。それなら止した方がいいのではあるまいか。いつも僕はつらい思いをしている。こんなものを、――そんな感じがして閉口して居る。殆ど自分一・・・ 太宰治 「喝采」
・・・ここはね、単なる宿屋さ。」 私は、むっとして顔を挙げました。 暗い電燈の下で、黙ってうつむいて蒸パンを食べていらっしゃる奥さまの眼に、その時は、さすがに涙が光りました。私はお気の毒のあまり、言葉につまっていましたら、奥さまはうつむき・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・日記を見てから、小林秀三君はもう単なる小林秀三君ではなかった。私の小林秀三君であった。どこに行ってもその小林君が生きて私の身辺についてまわってきているのを感じた。 かれの眼に映ったシーン、風景、感じ、すべてそれは私のものであった。私はそ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
出典:青空文庫