・・・ニイチェこそは、実に近代の苦悩を一人で背負つた受難者であり、我々の時代の痛ましい殉教者であつた。その意味に於て、ニイチェは正しく新時代のキリストである。耶蘇キリストは、万人の罪を一人で背負ひ、罪なくして十字架の上に死んだ。フリドリヒ・ニイチ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・南ドイツであったかある地方に毎年キリスト受難劇が行われる習慣があり、その年主役キリストを演じる農民の写真が当時の新聞にのった。世間で偉いと思われている人物とそっくりの顔立ちに生れついているなどという偶然は、ある種の人間にとって、何と皮肉で腹・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第三巻)」
・・・未亡人たちの身の上に集注してあらわれている被害、社会的矛盾、困難こそは、全くすべての働く女性、主婦、学生の日常の基本に一貫した受難であり、未来において絶対に克服されなければならない人間的な損傷と社会的矛盾である。その意味で、民主国では、この・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
・・・ブルジョア作家、自由思想家などもその衝撃を披瀝し、三・四月の文芸時評はことごとく何かの形で、同志小林の受難にふれたのである。しかしながら、それらのブルジョア作家、批評家の大部分が、同志小林多喜二の業績を追慕しながらも、自分の属す階級の制約性・・・ 宮本百合子 「同志小林の業績の評価に寄せて」
・・・浦上の切支丹信徒が経験した受難の種々は世に知られている。この建物も、始め起工した時から近年完成する迄には数十年を閲し、信徒の中には、自分の息子を大工、左官に仕立てその労力を献じて竣工させたという話も聞いた。御堂の大さは確に、大浦天主堂の数倍・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫