・・・その最後の木守りの犬歯がとうとうひとりでふらふらと抜け出したときはさすがにさびしかった。その抜けた跡だけ穴のあいた入れ歯をはめたままで今日に至っている。 父はきげんのよくない時総入れ歯を舌ではずしてくちびるの間に突き出したり引っ込ませた・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・定員人数の制限を守りさえすれば墜落の恐れはめったにない。しかしこの同じ心理が恐るべき惨害をかもす直接原因となりうるのは劇場や百貨店などの火事の場合である。その場合に前述の甲型の人間が多いと、階段や非常口が一時に押し寄せる人波のために閉塞して・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・だって私は妹の守りをすることもあるし、忙がしいのだから、一緒になるにはそれより方法がないからだ。 ときどきは、私と一緒にこんにゃく売りについてくることもあった。そして、「よし、こんどはおれにかつがせろよ」 と言って、代ってこんに・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・試合果てて再びここを過ぎるまで守り給え」「守らでやは」と女は跪いて両手に盾を抱く。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。 この時櫓の上を烏鳴き過ぎて、夜はほのぼのと明け渡る。 四 罪・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・コンディヤックの感覚論から出でて、その立場を守りながらかえって主意主義的な理想主義的な立場に行ったのである。私はこういう所に、サン・アンチームの哲学独得の、ドイツやイギリスの哲学と異なったものがあると思うのである。習慣という如きことは、普通・・・ 西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」
・・・只人間の勤を能する時は祷らず迚も神仏は守り給ふべし。 巫覡などの事に迷いて神仏を汚し猥に祈る可らずとは我輩も同感なり。凡そ是等の迷は不学無術より起ることなれば、今日男子と女子と比較し孰れか之に迷う者多きやと尋ねて、果して女子に多・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・もしそれ曙覧の人品性行に至りては磊々落々世間の名利に拘束せられず、正を守り義を取り俯仰天地に愧じざる、けだし絶無僅有の人なり。この稿を草する半にして、曙覧翁の令嗣今滋氏特に草廬を敲いて翁の伝記及び随筆等を示さる。因って翁の小伝を・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・私たちに、もし帰る家庭があるならば、それこそ私たち自身の社会的な努力によってその構造を辛くも守りたてて来ているからではないだろうか。戦争中、女はあんなに働かされた。働かされ、又働き、そしてその働きによってこそ、疲れて夕刻に戻る家路を保って来・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・姥竹は姉娘の生まれたときから守りをしてくれた女中で、身寄りのないものゆえ、遠い、覚束ない旅の伴をすることになったと話したのである。 さてここまでは来たが、筑紫の果てへ往くことを思えば、まだ家を出たばかりと言ってよい。これから陸を行ったも・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・父王の千人の妃たちの憎悪と迫害がこの新王の美しい妃に集まり、妃を孤立させるために相人を利用して新王を遠い地方へ送り出してしまう。守り手のない妃のところへは武士をさし向け、妃を山中に拉して首を切らせる。そうして、ここにも首なき母親の哺乳が語ら・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫