・・・「ここを曲がるかね」「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入らずに左へ廻れと教えたぜ」「饂飩屋の爺さんがか」と碌さんはしきりに胸を撫で廻す。「そうさ」「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」「なぜ」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・四ツ角を曲る時は、いつも三遍宛ぐるぐる回った。そんな馬鹿馬鹿しい詰らぬことが、僕には強迫的の絶対命令だった。だが一番困ったのは、意識の反対衝動に駆られることだった。例えば町へ行こうとして家を出る時、反対の森の方へ行ってるのである。最も苦しい・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・たとえば、遠方より望み見れば円き山にても、その山に登れば円き処を見ず、はるかに眺むれば曲りたる野路も、親しくその路を践めば曲るところを覚えざるが如し。直接をもって真の判断を誤るものというべし。かかる弊害は、近日我が邦の政談上においてもおおい・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・車屋に沿うて曲って、美術床屋に沿うて曲ると、菓子屋、おもちゃ屋、八百屋、鰻屋、古道具屋、皆変りはない。去年穴のあいた机をこしらえさせた下手な指物師の店もある。例の爺さんは今しも削りあげた木を老眼にあてて覚束ない見ようをして居る。 やっち・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて向うにぼんやり見える橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云えずさびしくなって、いきなり走り出・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・(洋傘直し、洋傘直し、なぜ農園の入口でおまえはきくっと曲るのか。農園の中などにおまえの仕事 洋傘直しは農園の中へ入ります。しめった五月の黒つちにチュウリップは無雑作に並べて植えられ、一めんに咲き、かすかにかすかにゆらいでいます。・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
その時分に、まだ菊人形があったのかどうか覚えていないが、狭くって急な団子坂をのぼって右へ曲るとすぐ、路の片側はずっと須藤さんの杉林であった。古い杉の樹が奥暗く茂っていて、夜は五位鷺の声が界隈の闇を劈いた。夏は、その下草の間・・・ 宮本百合子 「からたち」
・・・ 少し行って、廊下を左に曲る、日本女が足のはずみでその前を通りすぎそうにしたごくあたり前の或る木の扉のところでとまった。鍵がうまく合わない。プリントをもって後を通りすがった男が、 ――開かないのか? ――うん、ミーシャが今いない・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・横山町を曲る。塩町から大伝馬町に出る。本町を横切って、石町河岸から龍閑橋、鎌倉河岸に掛る。次第に人通が薄らぐので、九郎右衛門は手拭を出して頬被をして、わざとよろめきながら歩く。文吉はそれを扶ける振をして附いて行く。 神田橋外元護寺院二番・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 二階から差している明りは廊下へ曲る角までしか届かない。それから先きは便所の前に、一燭ばかりの電灯が一つ附いているだけである。それが遠い、遠い向うにちょんぼり見えていて、却てそれが見える為めに、途中の暗黒が暗黒として感ぜられるようである・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫