・・・何カ月目だったか、とにかく彼女のいわゆるキューピーのような恰好をしていたのを、彼女の家の裏の紅い桃の木の下に埋めた――それも自分が呪い殺したようなものだ――こうおせいに言わしてある。で今度もまた、昨年の十月ごろ日光の山中で彼女に流産を強いた・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・溪ぎわの大きな椎の木の下に立って遠い街道の孤独の電燈を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を跳めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは溪の闇へ向か・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・ 老松樹ちこめて神々しき社なれば月影のもるるは拝殿階段の辺りのみ、物すごき木の下闇を潜りて吉次は階段の下に進み、うやうやしく額づきて祈る意に誠をこめ、まず今日が日までの息災を謝し奉り、これよりは知らぬ国に渡りて軍の巷危うきを犯し、露に伏・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・』 時田は驚いて木の下闇を見ると、一人の男が立っていたが、ツイと長屋の裏の方へ消えてしまった。『だれ。』時田は訊ねた。『源公の野郎、ほんとにこの節は生意気になったよ。先生散歩?』お梅は時田のそばに寄って顔をのぞくようにして見た。・・・ 国木田独歩 「郊外」
一 榎木の実 皆さんは榎木の実を拾ったことがありますか。あの実の落ちて居る木の下へ行ったことがありますか。あの香ばしい木の実を集めたり食べたりして遊んだことがありますか。 そろそろあの榎木の実が落ちる・・・ 島崎藤村 「二人の兄弟」
・・・ 馬はその森の中の大きな木の下へウイリイを下しました。その木の上には烏が巣をつくっていました。馬はウイリイに、親烏が立って出るまで待っていて、その留守に木へ上って、巣にいる子烏を一ぴき殺して、命の水を入れるびんを、そっと巣の中に入れてお・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ 其日、彼女はもういつもの木の下には座りませんでした。スバーが、父の足許に泣き倒れて、顔を見上げ見上げ激しく啜泣き出した時、父親は、丁度昼寝から醒めたばかりで、寝室で煙草をのんでいる処でした。 バニカンタは、どうにかして、可哀そうな・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・それから二本の白樺の木の下の、寂しい所に、物を言わぬ証拠人として拳銃が二つ棄ててあるのを見出した。拳銃は二つ共、込めただけの弾丸を皆打ってしまってあった。そうして見ると、女房の持っていた拳銃の最後の一弾が気まぐれに相手の体に中ろうと思って、・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ おひる近くなって、重大なニュウスが次々と聞えて来るので、たまらなくなって、園子を抱いて外に出て、お隣りの紅葉の木の下に立って、お隣りのラジオに耳をすました。マレー半島に奇襲上陸、香港攻撃、宣戦の大詔、園子を抱きながら、涙が出て困った。・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・毎年この木の下で、ディップサークルをすえては、観測の稽古のお相手をして来た私には、特にそんな気がする。 あの木の下の水面に睡蓮がある。これはもちろん火事にはなんともなかったに相違ない。ことしの夏、どこかの画学生が来てあれを写生していた。・・・ 寺田寅彦 「池」
出典:青空文庫