・・・ そう言えば湯屋はまだある。けれども、以前見覚えた、両眼真黄色な絵具の光る、巨大な蜈むかでが、赤黒い雲の如く渦を巻いた真中に、俵藤太が、弓矢を挟んで身構えた暖簾が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯、と白抜きのに懸替って、門の目印の柳と共に・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・――でも自害をなさいました、後一年ばかり、一時はこの土地で湯屋でも道端でも唄って、お気の弱いのをたっとむまでも、初路さんの刺繍を恥かしい事にいいましたとさ。 ――あれあれ見たか、あれ見たか――、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかで・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・そのまま下へ行って、僕のおこっていることを言い、湯屋で見たことを妬いているのだということがもしも下のものらに分ったら、僕一生の男を下げるのだと心配したから、「おい、おい!」と命令するような強い声を出した。それでも、かの女は行ってしまった・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・いつもの通り晩に一口飲んで、いい機嫌になって鼻唄か何かで湯へ出かけると、じき湯屋の上さんが飛んで来て、お前さんとこの阿父さんがこれこれだと言うから、びっくらして行って見ると、阿父さんは湯槽に捉まったままもう冷たくなってたのさ。やっぱり卒中で・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・おや、お揃いで、どこへ行くんだい?」 下駄屋の前を通って、四ツ角を空の方へ折れたところで、饂飩屋にいたスパイがひょっこり立って出て来た。スパイは、饂飩屋で饂飩を食って金を払わない。お湯屋の風呂に入って、風呂銭を払わない、煙草屋で、煙草を・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・煙草屋へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋へも五六町はあって、どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・すぐちかくのお湯屋へ行くのにも、きっと日暮をえらんでまいります。誰にも顔を見られたくないのです。ま夏のじぶんには、それでも、夕闇の中に私のゆかたが白く浮んで、おそろしく目立つような気がして、死ぬるほど当惑いたしました。きのう、きょう、めっき・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・ 弥勒の村は、今では変わってにぎやかになったけれども、その時分はさびしいさびしい村だッた、その湯屋の煙突からは、静かに白い煙が立ち、用水縁の小川屋の前の畠では、百姓の塵埃を燃している煙が斜めになびいていた。 私とO君とは、その小川屋・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・松の傍に石を添える事はあるでしょうが、松を切って湯屋に売払う事はよほど貧乏しないとできにくい。せっかくの松を一片の煙としてしまうともう、情を働かす余地がなくなるからであります。して見ると文芸家は「物の関係を味わうものだ」と云う句の意味がいさ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・しかのみならず今日に至ては、その御広間もすでに湯屋の薪となり、御記録も疾く紙屑屋の手に渡りたるその後において、なお何物に恋々すべきや。また今の旧下士族が旧上士族に向い、旧時の門閥虚威を咎めてその停滞を今日に洩らさんとするは、空屋の門に立て案・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫