・・・二人きりになってしまったのに、さっきまでの、何ときりだすかという焦慮と不安は、だいぶうすらいでしまっていた。「あのゥ――」 彼女の方からいいだした。「妾、あなたのこと、まえから知っていました。あなたの御活躍なさってるご容子――」・・・ 徳永直 「白い道」
・・・そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮に焦慮て、汗を流したり呼息を切らしたりする。恐るべき神経衰弱はペストよりも劇しき病毒を社会に植付けつつある。夜番のために正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵の尻尾を噛っ・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・ 春来、国事多端、ついに干戈を動かすにいたり、帷幄の士は内に焦慮し、干役の兵は外に曝骨し、人情恟々、ひいて今日にいたる。ここにおいてか世の士君子、あるいは筆を投じて戎軒を事とするあり、あるいは一書生たるを倦みて百夫の長たらんとするあり、・・・ 福沢諭吉 「中元祝酒の記」
・・・当惑と一種の焦慮とをもって問題はおこっていて、一つこの矛盾を大いに克服しようではないか、そのためにはわれらの置かれている現実をまず分析しよう、討議しよう、さあ……諸君! という、気組みの引立ちが欠けている観がある。 特に率直にいえば、一・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・になっている女優一人一人について見れば、容貌にしろ髪の色、声にしろ感情表現の身振りにしろ特長がなくはないのだが、男との相対において現われて来ると、性格的なものをはっきり生かそうというスター・システムの焦慮にもかかわらず、感情の総和ではどうも・・・ 宮本百合子 「映画の恋愛」
・・・ 或る作家たちがこの三四年来の波瀾の間で、脱皮しようと焦慮した動きは、果してより強勁な現実のみかたを持とうとする方向をとっていただろうか。今日、声々をあげて変るということについて語られているうちに、おのおのの作家精神のコムプレックスの成・・・ 宮本百合子 「今日の文学の諸相」
・・・とに階級を認めざるを得ない今日の現実に反して、能動精神というものを抽象化してこれも漠然たる一般社会性の上に強調したことは、折角若き時代のモラルを創らんとしつつ、パン種の入っていないパンをふくらがそうと焦慮するに等しい本来的な無理があった。従・・・ 宮本百合子 「今日の文学の鳥瞰図」
・・・に対して与えられた批評の性質こそ、多くの作家が陥っていた人生的態度並びに文学作品評価についての拠りどころなさ、無気力、焦慮を如実に反映したものであった。 正宗白鳥が、「ひかげの花」を荷風の芸術境地としてそれなりに認め、「人生の落伍者の生・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・芭蕉は、小舎の柱に一つの瓢箪をつるし、そのなかに入れた米とそのほかほんの僅かの現世的経済の基礎を必要としただけで、権力のための闘いからも、金銭のための焦慮からも解放された芸術の境地を求めた。それは芭蕉の時代にもう武士階級の経済基礎は商人に握・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・而も、発育したい希い、より完美な芸術を創始したい熱情に鞭打たれた場合、少くとも自分は、惨めに焦慮する心持を知っている。それが、如何に統一を破るかも知っている。そのために翻って、どんなに製作に向っての無私が必要だか、意識下の均衡が大切だか思い・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
出典:青空文庫