・・・ただ中学生の自分が角帽をかぶり、少年のSちゃんが青年のS君になっていつのまにか酒をのむことを覚えていたくらいであった。熊本で漱石先生に手引きしてもらって以来俳句に凝って、上京後はおりおり根岸の子規庵をたずねたりしていたころであったから、自然・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京した事をわざわざ知らしてくれたものと思われる。その頃自分は大学二年生であったが、その少し前・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
明治十四年自分が四歳の冬、父が名古屋鎮台から熊本鎮台へ転任したときに、母と祖母と次姉と自分と四人で郷里へ帰って小津の家に落ちつき、父だけが単身で熊本へ赴任して行った。そうして明治十八年に東京の士官学校附に栄転するまでただの・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・高等学校時代に熊本の下宿で食った雑煮には牛肉が這入っていた。土佐の貧乏士族の子の雑煮に対する概念を裏切るような贅沢なものであった。比較にならぬほど上等であるために却って正月の雑煮の気分が出なくて、淡い郷愁を誘われるのであった。 東京へ出・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・ 高等学校時代には熊本の白川の川原で東京大相撲を見た。常陸山、梅ヶ谷、大砲などもいたような気がする。同郷の学生たち一同とともに同郷の力士国見山のためにひそかに力こぶを入れて見物したものである。ひいきということがあって始めて相撲見物の興味・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・ 三十余年前のことである。熊本の高等学校を出て東京へ出て来るについて色々の期待をもっていたうちでも、一つの重要なことは正岡子規を訪問することであった。そうして、着京後間もなく根岸の鶯横町というのを尋ねて行った。前田邸の門前近くで向うから・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・ 明治二十九年の秋熊本高等学校に入学してすぐに教わった三角術の先生がすなわち当時の若い田丸先生であった。トドハンターの本を教科書として使っていた。いちばん最初に試験をしたときの問題が、別にむつかしいはずはなかったのであるが、中学校の三角・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
・・・鉄の門の内側は広大な熊本煙草専売局工場の構内がみえ、時計台のある中央の建物へつづく砂利道は、まだつよい夏のひざしにくるめいていて、左右には赤煉瓦の建物がいくつとなく胸を反らしている。―― いつものように三吉は、熊本城の石垣に沿うてながい・・・ 徳永直 「白い道」
熊本の徳富君猪一郎、さきに一書を著わし、題して『将来の日本』という。活版世に行なわれ、いくばくもなく売り尽くす。まさにまた版行せんとし、来たりて余の序を請う。受けてこれを読むに、けだし近時英国の碩学スペンサー氏の万物の追世・・・ 中江兆民 「将来の日本」
・・・彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねと云う一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開い・・・ 夏目漱石 「子規の画」
出典:青空文庫