・・・彼は戸を開けるとき、それが習慣のなんとも言えない憂鬱を感じた。それは彼がその家の寝ている主婦を思い出すからであった。生島はその四十を過ぎた寡婦である「小母さん」となんの愛情もない身体の関係を続けていた。子もなく夫にも死に別れたその女にはどこ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・「曰く習慣の力です。Our birth is but asleep and forgetting. この句の通りです。僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々な事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 学生時代に汚れた快楽に習慣づけられた青年の行く先きは必ず有望なものでない。それは私の周囲に幾多の例証がある。社会的にも、人間的にも凡俗に堕ちて行っている。その原因は肉体的快楽を知ることによって、あまりに大人となり、学窓の勉強などが子ど・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・という根本的な方針が、既に、一年前に確立され、質的飛躍の第一歩がふみだされているとき、工場労働者とはちがった特殊な生活条件、地理環境、習慣、保守性等を持った農民、そして、それらのいろいろな条件に支配される農民の欲求や感情や、感覚などを、プロ・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・斯のように神仏を崇敬するのは維新前の世間の習慣で、ひとり私の家のみのことではなかったのだが、私の家は御祖母様の保守主義のために御祖父様時代の通りに厳然と遣って行った、其衝に私が当らせられたのでした。畢竟祖父祖母が下女下男を多く使って居た時の・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・陳い習慣の抜殻かも知れないが、普通道徳を盲目的に追うている間は、時としてこれに似たような感じの伴うこともあった。あの情味が新開眼の自己道徳には伴わない。要するに新旧いずれに就くも、実行的人生の理想の神聖とか崇高とかいう感じは消え去って、一面・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・この大変災を機会として、すべての人が根本に態度をあらためなおし、勤勉質実に合理的な生活をする習慣をかため上げなければならないと思います。 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・「このごろでは、解析学の始めに集合論を述べる習慣があります。これについても、不審があります。たとえば、絶対収斂の場合、昔は順序に無関係に和が定るという意味に用いられていました。それに対して条件的という語がある。今では、絶対値の級数が収斂・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・その習慣が長く続くと、生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わんそうだ」 「ばかな……」 と笑ったものがある。 「だッて、子供ができるじゃないか」 と誰かが言った。 「それは子供はできるさ……」と前・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ あえて蠅に限らず動植鉱物に限らず、人間の社会に存するあらゆる思想風俗習慣についても、やはり同じようなことがいわれはしないか。 たとえば野獣も盗賊もない国で、安心して野天や明け放しの家で寝ると、風邪を引いて腹をこわすかもしれない。○・・・ 寺田寅彦 「蛆の効用」
出典:青空文庫