・・・「この晴雨計の使い方を知っているかね、一つ測って見給え」などと云った。別れ際に「ぜひ紹介したい人があるから今晩宅へ来てくれ」と云って独りで勝手に約束をきめてしまった。 約束の時刻に尋ねて行った。入口で古風な呼鈴の紐を引くと、ひとりで戸が・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼が出来上り、それからお取り膳の差しつ押えつ、まことにお浦山吹きの一場は、次の巻の出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後は書かず。読者諒せよ。明治四十五年四月・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕を追い懸けて病癒えぬと申し給え。この頃の蔭口、二人をつつむ疑の雲を晴し給え」「さほどに人が怖くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そうした時、試みに窓から外を眺めて見給え。いつも見慣れた途中の駅や風景やが、すっかり珍しく変ってしまって、記憶の一片さえも浮ばないほど、全く別のちがった世界に見えるだろう。だが最後に到着し、いつものプラットホームに降りた時、始めて諸君は夢か・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・で、ある時小川町を散歩したと思い給え。すると一軒の絵双紙屋の店前で、ひょッと眼に付いたのは、今の雑誌のビラだ。さア、其奴の垂れてるのを一寸瞥見しただけなんだが、私は胸がむかついて来た。形容詞じゃなく、真実に何か吐出しそうになった。だから急い・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・終には昔為山君から教えられた通り、日本画の横顔と西洋画の横顔とを画いて「これ見給え、日本画の横顔にはこんな目が画いてある、実際 君、こんな目があるものじゃない」などと大得意にしゃべって居る。その気障加減には自分ながら驚く。○僕は子供・・・ 正岡子規 「画」
・・・はいり給え。」「うん、どうもひどい雨だね。パッセン大街道も今日はいきものの影さえないぞ。」「そうか。ずいぶんひどい雨だ。」「ところで君も知ってる通り、明後日は僕の結婚式なんだ。どうか来て呉れ給え。」「うん。そうそう。そう云え・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・神よ、私に眠りを授け給え! 一晩じゅう、どんなに私が体を火照らせ、神経を鋭敏に働かせ通したか、あけ方の雀が昨日と同じく何事もなかった朝にさえずり出したその一声を、どんな歓喜をもって耳にしたか、私のひとみほど近しい者だって同感することは出・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・今手を洗って行くから、待ってくれ給え。一体医者が手をこんなにしてはたまらないね、君」 花房は前へ出した両手の指のよごれたのを、屈めて広げて、人に掴み付きそうな風をして、佐藤に見せて笑っている。 佐藤が窓を締めて引っ込んでから、花房は・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・焚かないですませるものなら、やめてくれ給え。」 彼は若者の答えを待たずに、裏山から漁場の方へ降りていった。扁平な漁場では、銅色の壮烈な太股が、林のように並んでいた。彼らは折からの鰹が着くと飛沫を上げて海の中へ馳け込んだ。子供たちは砂浜で・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫