・・・ 画に書いた鹿や死んだ鹿は見たが、現に生きた鹿が山を走るのを見たは僕これが始めてだから手を拍ってよろこんだ。僕のよろこぶさまを見て今井の叔父さんはにこにこ笑ってござった。『今に見ろ、あの鹿を打ってみせるから。』『だって逃げてしま・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・飛鳥の子を養ひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。……日蓮が母存生しておはせしに、仰せ候ひしことも、あまりに背き参らせて候ひしかば、今遅れ参らせて候が、あながちにくやしく覚え・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・傷ついた手をほかの手で握って走る者がある。それをパルチザンは森の中からねらいをきめて射撃した。興奮した感情は、かえってねらいを的確にした。 カーキ色の軍服は、こっちで引鉄を握りしめると、それから十秒もたたないうちに、足をすくわれたように・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・幸に馬車の深谷へ行くものありければ、武蔵野というところよりそれに乗りて松原を走る。いと広き原にて、行けども行けども尽くることなし。名を問えば櫛挽の原という。夕日さす景色も淋し松たてる岡部の里と、為相の詠めるあたりもこの原つづきなり。よってお・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・学士はそこに好い隠れ家を見つけたという風で、愛蔵する鷹の羽の矢が白い的の方へ走る間、一切のことを忘れているようであった。 大尉等を園内に残して置いて、学士と高瀬の二人は復た元来た道を城門の方へとった。 途中で学士は思出したように、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・車の轍で平らされているこの道を、いつも二輪の荷車を曳いて、面白げに走る馬もどこにも見えない。 河に沿うて付いている道には、規則正しい間隔を置いて植えた、二列の白楊の並木がある。白楊は、垂れかかっている白雲の方へ、長く黒く伸びている。その・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ A新聞社の前では、大勢の人が立ちどまり、ちらちら光って走る電光ニュウスの片仮名を一字一字、小さい声をたてて読んでいる。兄も、私も、その人ごみのうしろに永いこと立ちどまり、繰り返し繰り返し綴られる同じ文章を、何度でも飽きずに読むのである・・・ 太宰治 「一燈」
・・・大きな門、駄菓子を売る古い茅葺の家、ここまで来ると、もう代々木の停留場の高い線路が見えて、新宿あたりで、ポーと電笛の鳴る音でも耳に入ると、男はその大きな体を先へのめらせて、見栄も何もかまわずに、一散に走るのが例だ。 今日もそこに来て耳を・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・近い岬の岩間を走る波は白い鬣を振り乱して狂う銀毛の獅子のようである。暗緑色に濁った濤は砂浜を洗うて打ち上がった藻草をもみ砕こうとする。夥しく上がった海月が五色の真砂の上に光っているのは美しい。 寛げた寝衣の胸に吹き入るしぶきに身顫いをし・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 利平は、身内を、スーッと走る寒さに似た恐怖を感ぜずにいられなかった。「おい、支度をしろ、今日のうちに、引越してしまおう」 おど、おどしている女房に、こう云った利平は、先刻までの、自信がすっかりなくなってキョロキョロしていた。・・・ 徳永直 「眼」
出典:青空文庫