・・・そうして扁平な頭をぶるぶると擡げるのみで追うて人を噛むことはない。太十も甞て人を打擲したことがなかった。彼はすぐ怒るだけに又すぐに解ける。殊に瞽女のお石と馴染んでからはもうどんな時でもお石の噺が出れば相好を崩して畢う。大きな口が更に拡がって・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯の寛き衣を纏いて、長き杖の先に小さき瓢を括しつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときは頭よりただ一枚と思わるる真白の上衣被りて、眼口も手足も確と分ちかねたるが、けたたましげに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・善吉は足早に吉里の後を追うて、梯子の中段で追いついたが、吉里は見返りもしないで下湯場の方へ屈ッた。善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人悄然として顔を洗いに行ッた。 そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・たとえば医学の如きは、日本にてその由来も久しく、したがってその術も他の諸科に超越するものなれども、今日の有様を見れば、西洋の日新を逐うて、つねに及ばざるの嘆をまぬかれず。数百年の久しき、日本にて医学上の新発明ありしを聞かざるのみならず、我が・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・馬を追う鞭ですよ。あっちへ馬が四疋も行ってますからねえ。そらね、こんなふうに。」 百姓はわたくしの顔の前でパチッパチッとはげしく鞭を鳴らしました。わたくしはさあっと血が頭にのぼるのを感じました。けれどもまた、いま争うときでないと考えて山・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・二人の老人はかおを見合わせてホッと溜息をつきながらだまって涙ぐみながらトボトボとそのあとを追うて行く。精女は力のぬけた様に草の上に座ってつぼをわきに置きながら。シリンクス お主さまからしかられよう――私はただあの人が云って呉れと・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご寵愛なされたもので、それが荼の当日に、しかもお荼所の岫雲院の井戸に・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・さてもあのまま鎌倉までもしは追うて出で行いたか。いかに武芸をひとわたりは心得たとて……この血腥い世の中に……ただの女の一人身で……ただの少女の一人身で……夜をもいとわず一人身で……」 思えば憎いようで、可哀そうなようで、また悲しいようで・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・いを殺し、腰蓑の鋭さに水滴を弾いて、夢、まぼろしのごとく闇から来り、闇に没してゆく鵜飼の灯の燃え流れる瞬間の美しさ、儚なさの通過する舞台で、私らの舟も舷舷相摩すきしみを立て、競り合い揺れ合い鵜飼の後を追う。目的を問う愚もなさず、過去を眺める・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・おのれのみが志を遂げんために利を逐うて狂奔する虚業家、或いは政治家、おのれの心のみを倦まざらしめんためにホテルへ踊りに行く貴族富豪、それらを見て父の心には勃然として怒りの情が動きはしまいか。今や、皇室をねらう不埒漢さえも出た非常の時である。・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫