・・・「そりゃそういえば確にそうだが、忍術だって入用のものだから世に伊賀流も甲賀流もある。世間には忍術使いの美術家もなかなか多いよ。ハハハ。」「御前製作ということでさえ無ければ、少しも屈托は有りませんがナア。同じ火の芸術の人で陶工の愚斎は・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・厳密にいえば、万物すべてうまれいでたる刹那より、すでに死につつあるのである。 これは、太陽の運命である。地球およびすべての遊星の運命である。まして地球に生息する一切の有機体をや。細は細菌より、大は大象にいたるまでの運命である。これは、天・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
秀吉金冠を戴きたりといえども五右衛門四天を着けたりといえども猿か友市生れた時は同じ乳呑児なり太閤たると大盗たると聾が聞かば音は異るまじきも変るは塵の世の虫けらどもが栄枯窮達一度が末代とは阿房陀羅経もまたこれを説けりお噺は山・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「もうそうお成りですかいなあ」と蜂谷も思出したように、「私が先生の御世話になった時分はお嬢さんもまだ一向におちいさかった。これまでにお育てになるのは、なかなかお大抵じゃない」「いえ、蜂谷さん、あれがあるばかりに私も持ちこたえられたよ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・誰でも己に為事をしろとさえいえば、己は朝から晩まで休まずに為事をしようと思っているのじゃあないか。この人達も己と同じような人間だ。つい口を開けて物を言えば、己の身の上が分からないことはあるまい。まさか町の奴等のように人を下目に見はすまい。み・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それこそ、この世界中で一ばん美しい女ではないかと思われるような、何ともいえない、きれいな女の画姿です。ウイリイはびっくりして、その顔を見つめました。 ウイリイはやっと、その羽根をポケットにしまって、また馬を走らせました。そしてどこまでも・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・「いえ、鳥の巣にはふれるものではありません」 とおかあさんは言いました。 こうして二人が海岸の石原の上に立っていると、一艘の舟がすぐ足もとに来て着きましたが、中には一人も乗り手がありませんでした。 でおかあさまは子どもを連れ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・に於てだけは、当るといえども甚だ遠いものではなかろうかと私には思われるのだ。 井伏さんが「青ヶ島大概記」をお書きになった頃には、私も二つ三つ、つたない作品を発表していて、或る朝、井伏さんの奥様が、私の下宿に訪ねてこられ、井伏が締切に追わ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 何も人間が通るのに、評判を立てるほどのこともないのだが、淋しい田舎で人珍しいのと、それにこの男の姿がいかにも特色があって、そして鶩の歩くような変てこな形をするので、なんともいえぬ不調和――その不調和が路傍の人々の閑な眼を惹くもととなっ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ それでは私が困るからと云ってみたが、「いえ、とんでもない事です」と云ってなかなか聞き入れてはくれない。 結局私は白い花瓶と、こわれない別の青い壷との二点をさげておめおめと帰って来た。 主人は二つの品を丁寧に新聞紙で包んでくれて・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫