・・・どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。黯然として吾も黙した。また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底見込がないそうだ。・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・幸に世界を流るる一の大潮流は、暫く鎖した日本の水門を乗り越え潜り脱けて滔々と我日本に流れ入って、維新の革命は一挙に六十藩を掃蕩し日本を挙げて統一国家とした。その時の快豁な気もちは、何ものを以てするも比すべきものがなかった。諸君、解脱は苦痛で・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・今年の春には谷中瑞輪寺に杉本樗園の墓を尋ねた時、門内の桜は既に散っていたが、門外に並んだ数株の老桜は恰も花の盛であったのみならず、わたくしは其幹の太さより推測して是或は江戸時代の遺物ではあるまいかと、暫く佇立んでその梢を瞻望した。是日また大・・・ 永井荷風 「上野」
・・・大勢はまだ暫くがやがやとして居たが一人の手から白紙に包んだ纏頭が其かしらの婆さんの手に移された。瞽女は泊めた家への謝儀として先ず一段を唄う。そうして大勢の中の心あるものから纏頭を得て一くさり唄うのである。三味線の胴が復た膝にもどった。大勢は・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・わが知る限りにおいては、またわが了解し得たる限りにおいては(了解し得ざる論議は暫く措必ずしも非難すべき点ばかりはない。けれども自然主義もまた一つのイズムである。人生上芸術上、ともに一種の因果によって、西洋に発展した歴史の断面を、輪廓にして舶・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・ベルを押し、請ぜられて応接間に入り、暫く待っていた。無論応接間の様子などユンケル氏のそれと似もつかぬのであるが、それでも自分には少しも気がつかなかった、全くユンケル氏の応接間に入っているつもりでいた。その中エスさんが二階から降りて来られた。・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・ 彼は、暫く凭れにかかって、少年を観察していた。 少年は疲れた顔を、帯の輪の間に突っ込んで、深い眠りに眠りこけていた。「兄さん。おい、兄さん。冗談じゃないぜ息が詰っちまうぜ」 彼は、暫くして少年を揺り起した。少年は鈍く眼を開・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・諫を聴ずして怒らば先づ暫く止めて、後に夫の心和ぎたる時又諫べし。必ず気色を暴し声をいらゝげて夫に逆い叛ことなかれ。 此一章は専ら嫉妬心を警しむるの趣意なれば、我輩は先ず其嫉妬なる文字の字義を明にせんに、凡そ他人の為す所にして我身・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・(暫く物を案ずる様子にてあちこち歩く。舞台の奥にてヴァイオリンの音聞ゆ。物懐しげに人の心を動かす響なり。初めは遠く、次第に近く、終にはその音暖かに充ち渡りて、壁隣の部屋より聞ゆる如音楽だな。何だか不思議に心に沁み入るような調べだ。あの男が下・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・何だか苦痛極って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記しおえた処へ母が来て、ソップは来て居るのぞなというた。〔『ホトトギス』第五巻第十一号 明治35・9・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
出典:青空文庫