今日は図らず御招きに預りまして突然参上致しました次第でありますが、私は元この学校で育った者で、私にとってはこの学校は大分縁故の深い学校であります。にもかかわらず、今日までこういう、即ち弁論部の御招待に預って、諸君の前に立っ・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・ 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃が山のように積んであった。門の外から持ち込んだものだか、門内のどこからか持って来たものだか分らなかった。塵の下に・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・お前さんに調えてもらやアしまいし、かまッておくれでない」「さようさね。花魁をお世話申したことはありませんからね」 吉里は返辞をしないでさッさッと行く。お熊はなお附き纏ッて離れぬ。「ですがね、花魁。あんまりわがままばかりなさると、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・文士や画家や彫塑家の寄合所になっていた、小さい酒店が幾つもあったが、それがたいてい閉店してしまって、そこに出入していた人達は、今では交際社会の奢った座敷に出入している。新進文士でも二三の作が少し評判がいいと、すぐに住いや暮しを工面する。ちょ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・明日の晩実は柳橋で御馳走になる約束があるのだが一日だけ日延してはくれまいかと願って見たとて鬼の事だからまさか承知しまいナ。もっとも地獄の沙汰も金次第というから犢鼻褌のカクシへおひねりを一つ投げこめば鬼の角も折れない事はあるまいが生憎今は十銭・・・ 正岡子規 「墓」
・・・じいさんは、ていねいにおじぎをして行き過ぎようとしましたら、さむらいがピタリととまって、ちょっとそらを見上げて、それからあごを引いて、六平を呼び留めました。秋の十五夜でした。「あいや、しばらく待て。そちは何と申す」「へいへい。私は六・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・ 全体、私たちビジテリアンというのは、ご存知の方も多いでしょうが、実は動物質のものを食べないという考のものの団結でありまして、日本では菜食主義者と訳しますが主義者というよりは、も少し意味の強いことが多いのであります。菜食信者と訳したら、・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・女房は、おしまという。亭主に負けない黒い顔で、眼の丸い働きものです。村で一番という位蚕のおき方がうまい。沢山酒ものむし、盆躍りは少し夢中になり過ぎるが、勇吉の身上の半分はもち論このおしまのかせぎで出来たのであった。 段々暮し向の工合はよ・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・「顔違いがしてしもて、偉い難儀しました」 章子が笑いながら京都弁で答えた。「ああなると、どれがどれやら一向分らんようになるなあ」「そうどす、一寸は見分けがつきまへんやろ、然し男はんにすると、そのなかから、ふんあこにいよるなあ・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・この小説で作者の語ろうとするテーマは、朝田医院主及びそれをとりまく一群の現代的腐敗、堕落を逆流として身にうける志摩の技術的知識人の人間的良心、能動性の発展の過程に在ることは明らかである。単なる事件、人事関係、デカダンスの錯綜追跡の探偵もの風・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
出典:青空文庫