・・・白い旗が、ヒラヒラと、彼の生前を思わせる応援旗のようにはためいた。 安岡は、そのことがあってのちますます淋しさを感ずるようになった。部屋が広すぎた。松が忍び足のように鳴った。国分寺の鐘が陰にこもって聞こえてくるようになった。 こうい・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人悄然として顔を洗いに行ッた。 そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼はいずれもその傍に附き添い、水を杓んでやる、掛けてやる、善吉の目には羨ましく見受けられた。 客の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・』 子を抱いた女の彼の可哀相な人が悄然として、お帰りの後から斯う声を掛けて、彼女の方がまた睨んで御居ででした。『あの、貴方。』と、うッて変った優しい御声は、洋服を召した気高い貴婦人が其処に来掛って、あの可哀相な女の人をお呼止めになっ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・されども不良の子に窘しめらるるの苦痛は、地獄の呵嘖よりも苦しくして、然も生前現在の身を以てこの呵嘖に当たらざるを得ず。余輩敢えて人の信心を妨ぐるにはあらざれども、それ程にまで深謀遠慮あらば、今少しくその謀を浅くしその慮を近くして、目前の子供・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・は深更家に帰りて面目なかりしが、今夜は妻女何処に行きしや、その場所さえ分明ならずなどの奇談もあるべしと想像したらば、さすがに磊落なる男子も慚愧に堪えざるのみならず、これは世教のために大変なりとて、自ら悚然たることならん。然るに婦女子の志の有・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・男も悄然として居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起ったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」とやったが、月がなかった。今度は故郷の三津を想像して、波打ち際で、別を惜むことにしようと思う・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・蕪村歿後に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧し・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・僕も生前に経験がある。死んだ友達の墓へ一度参ったきりでその後参ろう参ろうと思って居ながらとうとう出来ないでしまった。僕は地下から諸君の万歳を祈って居る。…………今日は誰も来ないと思ったら、イヤ素的な奴が来た。蘭麝の薫りただならぬという代物、・・・ 正岡子規 「墓」
・・・(兵卒悄然(兵卒らこの時漸く饑餓を回復し良心の苛責に勝兵卒三「おれたちは恐ろしいことをしてしまったなあ。」兵卒十「全く夢中でやってしまったなあ。」兵卒一「勲章と胃袋にゴム糸がついていたようだったなあ」兵卒九「・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・まず博士の神学を挙げて二度これを満場に承認せしめこれを以て大前提とし次にビジテリアンがこれに背くことを述べて小前提とし最後にビジテリアンが故に神に背くことを断定し菜食なる小善の故に神に背くの大罪を犯すことを暗示致されました。実に簡潔明瞭なる・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
出典:青空文庫