・・・ しかし自分の画版はあまりに狭く自分の目の前にひろがっている世界はあまりに荘重美麗である。自分はただ断片的なる感想を断片的に記述する事を以て足れりとせねばならぬ。 われわれ過渡期の芸術家が一度びこの霊廟の内部に進入って感ずるのは、玉・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・馬鹿馬鹿しいと思うにつけて、たとい親しい間柄とは云え、用もないのに早朝から人の家へ飛び込んだのが手持無沙汰に感ぜらるる。「どうして、こんなに早く、――何か用事でも出来たんですか」と御母さんが真面目に聞く。どう答えて宜いか分らん。嘘をつく・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 船体の動揺の刹那まで、私の足の踝にジャックナイフの突き通るまでは、私にも早朝の爽快さと、溌溂さとがあった。けれども船体の一と揺れの後では、私の足の踝から先に神経は失くなり、多くの血管は断ち切られた。そして、その後では、新鮮な溌溂たる疼・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 子供は、早朝の爽やかな空気の中で、殊に父に負ぶさっていると云う意識の下に、片言で歌を唄いながら、手足をピョンピョンさせた。――一九二六、一一、二六―― 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・「お誂えは何を通しましょうね。早朝んですから、何も出来ゃアしませんよ。桶豆腐にでもしましょうかね。それに油卵でも」「何でもいいよ。湯豆腐は結構だね」「それでよござんすね。じゃア、花魁お連れ申して下さい」 吉里は何も言わず、つ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・外には活溌にして内には懶惰、台所の有様を知らず、玄関の事情を知らず、子供の何を喰らい何を着るを知らず、家族召使の何を楽しみ何を苦しむを知らず。早朝に家を出て夜に入らざれば帰らず。あるいは夜分に外出することあり、不意に旅行することあり。主人は・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
人物 バナナン大将。 特務曹長、 曹長、 兵士、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。場処 不明なるも劇中マルトン原と呼ばれたり。時 不明。幕あく。砲弾にて破損せる・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・蟻の特務曹長が、低い太い声で言いました。 ねずみはくるっと一つまわって、いちもくさんに天井裏へかけあがりました。そして巣の中へはいって、しばらくねころんでいましたが、どうもおもしろくなくて、おもしろくなくて、たまりません。蟻はまあ兵隊だ・・・ 宮沢賢治 「ツェねずみ」
・・・「おれは電気総長だよ。」 恭一も少し安心して「電気総長というのは、やはり電気の一種ですか。」とききました。するとじいさんはまたむっとしてしまいました。「わからん子供だな。ただの電気ではないさ。つまり、電気のすべての長、長とい・・・ 宮沢賢治 「月夜のでんしんばしら」
・・・なかのものがその辺にとりちらされ、鼈甲のしんに珊瑚の入った花の簪が早朝の黒い土に落ちて、濡れていた。 一番終りのときは、弟二人が大きくなっていた。上の弟が夜あけに不図目をあけたら、足許の戸棚のところに何か黒いものが見えたので、何の気なし・・・ 宮本百合子 「からたち」
出典:青空文庫