・・・ お初は、利平にそっという。しかし利平は黙って答えないが、いうまでもなく、それは今朝、留置場から放免されて帰って来た争議団員たちを、他の者たちが歓迎しているのだ 利平は驚いた。暗い処に数十日をぶち込まれた筈の彼等の、顔色の何処にそん・・・ 徳永直 「眼」
・・・わたくしは梯子段を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥、茶ぶ台、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・三次は左の手を赤の腹へ当ててそっとあげた。後足は土について居る。赤はすっと首を低くしていつもの甘えた容子をした。犬には荒繩が斜にかけられた。犬は驚いてひいひいと悲愴な声を立てた。三次が手を放した時犬は四つ足を屈めて地を偃うように首を垂れて身・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・先生の生活はそっと煤煙の巷に棄てられた希臘の彫刻に血が通い出したようなものである。雑鬧の中に己れを動かしていかにも静かである。先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲の響がない。先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかな革で作ったサンダルを穿いて・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・そこで青年たちが来る毎に、僕は裏門をあけてそっと入れ、家人に気兼ねしながら話さねばならなかった。それは僕にとって非常に辛く、客と両方への気兼ねのために、神経をひどく疲らせる仕末だった。僕は自然に友人を避け、孤独で暮すことを楽しむように、環境・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 上野の汽笛が遠くへ消えてしまッた時、口笛にしても低いほどの口笛が、調子を取ッて三声ばかり聞えると、吉里はそっと窓を開けて、次の間を見返ッた。手はいつか袂から結び文を出していた。 十一 午前の三時から始めた煤払い・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そして郵便物を載せた銀盤を卓の一番端の処へ、注意してそっと置いた。この銀盤は偶然だが、実際ある寺院で使っていたロオマ時代の器具であった。卓の上には物を書いた紙が一ぱいに散らばっていて、ほとんど空地が無い。それから給仕は来た時と同じように静か・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・自分が福の神であったら今宵この婆さんの内に往て、そっとその枕もとへ小判の山を積んで置いてやるよ、あしたの朝起きて婆さんがどんなに驚くであろう。しかし善く考えると福相という相ではない。むしろ貧相の方であって、六十年来持ち来ったつぎまぜの財布を・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・居ないのでないもうこっちが三年生なのだが、あの挨拶を待ってそっと横眼で威張っている卑怯な上級生が居ないのだ。そこで何だか今まで頭をぶっつけた低い天井裏が無くなったような気もするけれどもまた支柱をみんな取ってしまった桜の木のような気もする。今・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 一太は長いこと長いこと母親の手許を眺めていてから、そっと、「キャラメル二銭買っとくれよ、おっかちゃん」とねだった。「…………」「ね! 一度っきり、ね?」「駄目だよ」「なぜさ――おととい玉子あんだけ売ったんじゃな・・・ 宮本百合子 「一太と母」
出典:青空文庫