・・・学生たちがそれをまた神棚から引きおろそうとして躍起になると、そのうち小野がだしぬけに“ハーイ”と、熊本弁独特のアクセントでひっぱりながらいう。「ハーイ、わしがおふくろは専売局の便所掃除でござります。どうせ身分がちごうけん、考えもちがいま・・・ 徳永直 「白い道」
・・・辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出るので、毎夜吉原通いの人力車がこの道を引きもきらず、提灯を振りながら走り過るのを、『たけくらべ』の作者は「十分間に七十五輌」と数・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・僅一行の数字の裏面に、僅か二位の得点の背景に殆どありのままには繰返しがたき、多くの時と事と人間と、その人間の努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。 従ってイズムは既に経過せる事実を土台として成立するものである。過去を総束するものである。経験の・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・しまいには遠き未来の世を眼前に引き出したるように窈然たる空の中にとりとめのつかぬ鳶色の影が残る。その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが滴るように見え初める。三層四層五層共に瓦斯を点じたのである。余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ただ現在に活動しただ現在に義務をつくし現在に悲喜憂苦を感ずるのみで、取越苦労や世迷言や愚痴は口の先ばかりでない腹の中にもたくさんなかった。それで少々得意になったので外国へ行っても金が少なくっても一箪の食一瓢の飲然と呑気に洒落にまた沈着に暮さ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 重吉は夢中で怒鳴った、そして門の閂に双手をかけ、総身の力を入れて引きぬいた。門の扉は左右に開き、喚声をあげて突撃して来る味方の兵士が、そこの隙間から遠く見えた。彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 私は、ほつれた行李の柳を引き千切って、運河へ放り込みながら、そう云った。「おい! そんな自棄を云うもんじゃないよ。それよりも、おとなしく『合意雇止め』にしてやるから、ボーレンで一ヵ月も休んで、傷を癒してから後の事は、又俺でも世話を・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・底についたらしく手に感じたとき、すぐにグイグイと引っぱられ、あわてて引きあげてみると、大きなソコブクがかかっていた。釣れるときにはこんなにあっけなくかかるのに、釣れないとなると、どうにもしかたがないものである。私が成功したのは後にも先にもこ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急いで上草履を引き摺ッている。 お熊は四十格向で、薄痘痕があッて、小鬢に禿があッて、右の眼が曲んで、口・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・余輩はただ今後の成行に眼をつけ、そのいずれかまず直接法の不便利を悟りて、前に出したる手を引き、口を引き、理屈を引き、さらに思想を一層の高きに置きて、無益の対陣を解く者ならんと、かたわらより見物して水掛論の落着を待つのみ。 この全編の大略・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
出典:青空文庫