・・・彼は自殺の一二年前から、その作品の風貌を全く変へたが、これがニイチェの影響であつたことは、その「歯車」「西方の人」「河童」等の作品によく現れて居る。且つ彼はそのエッセイにも、ニイチェの標題をそのままイミテートして「文芸的な、あまりに文芸的な・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・及び鴉等は鳴き叫び風を切りて町へ飛び行くまもなく雪も降り来らむ――今尚、家郷あるものは幸福なるかな。 の初聯で始まる「寂寥」の如き詩は、その情感の深く悲痛なることに於て、他に全く類を見ないニイチェ独特の名・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・お前の下りた階段をお前の一つ後から一足ずつ降りて来たまでの話さ」 此蛞蝓野郎、又何か計画してやがるわい。と私は考えた。幽霊じゃあるまいし、私の一足後ろを、いくらそうっと下りたところで、音のしない訳がないからだ。 私はもう一度彼女を訪・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と思ったり、又或時は「だが、此事はほんの俺の幻想に過ぎないんじゃないか、ただそんな風な気がすると云う丈けのことじゃないか、でなけりゃ……」とこんな風に、私にもそれがどっちだか分らずに、この妙な思い出は益々濃厚に精細に、私の一部に彫りつけられ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・そこへ二、三年前、一月の寒い風に吹かれながら、ソコブク釣りに出かけた。河豚のおいしいのは十二月から一月までである。十月ごろから食べはじめ、三月のいわゆる菜種河豚でおしまいにするが、なんといっても正月前後がシュンだ。そこで、正月の松の内に、五・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。 客は二人である。西宮は床の間を背に胡座を組み、平田は窓を背にして膝も崩さずにいた。 西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌のある丸顔。結城紬の小袖に同じ羽織という打扮で、どことなく商・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
一本腕は橋の下に来て、まず体に一面に食っ附いた雪を振り落した。川の岸が、涜されたことのない処女の純潔に譬えてもいいように、真っ白くなっているので、橋の穹窿の下は一層暗く見えた。しかしほどなく目が闇に馴れた。数日前から夜ごと・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・養家に行きて気随気儘に身を持崩し妻に疏まれ、又は由なき事に舅を恨み譏りて家内に風波を起し、終に離縁されても其身の恥辱とするに足らざるか。ソンナ不理窟はなかる可し。女子の身に恥ず可きことは男子に於ても亦恥ず可き所のものなり。故に父母の子を教訓・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・啻に自身の不利のみならず、男子の醜行より生ずる直接間接の影響は、延て子孫の不幸を醸し一家滅亡の禍根にこそあれば、家の主婦たる責任ある者は、自身の為め自家の為め、飽くまでも権利を主張して配偶者の乱暴狼藉を制止せざる可らず。吾々の勧告する所なり・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その後、大槻玄沢、宇田川槐園等継起し、降りて天保弘化の際にいたり、宇田川榛斎父子、坪井信道、箕作阮甫、杉田成卿兄弟および緒方洪庵等、接踵輩出せり。この際や読書訳文の法、ようやく開け、諸家翻訳の書、陸続、世に出ずるといえども、おおむね和蘭の医・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾の記」
出典:青空文庫