・・・遊芸をみっちり仕込んだ嫖致の好い姉娘は、芝居茶屋に奉公しているうちに、金さんと云う越後産の魚屋と一緒になって、小楽に暮しているが、爺さんの方へは今は余り寄りつかないようにしている。「私も花をあんなものにくれておくのは惜しいでやすよ。多度・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・大柄の男で年は五十余りとも見える。頭を綺麗に剃り小紋の羽織に小紋の小袖の裾を端折り、紺地羽二重の股引、白足袋に雪駄をはき、襟の合せ目をゆるやかに、ふくらました懐から大きな紙入の端を見せた着物の着こなし、現代にはもう何処へ行っても容易には見ら・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・然しそれが余り突然なので対手はいつものように揶揄って見たくなった。「まさか俺がこっちゃあるめえな」とすぐにつけ足した。「どうせ犬殺しの手にかけるなら自分でやっちまった方がいいと思って……」 太十は口をしがめた。「それじゃ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・残るは運よく菓子器の中で葛餅に邂逅して嬉しさの余りか、まごまごしている気合だ。「その画にかいた美人が?」と女がまた話を戻す。「波さえ音もなき朧月夜に、ふと影がさしたと思えばいつの間にか動き出す。長く連なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むに・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・一通りの挨拶をするのが礼だそうだが、落天の奇想を好む余はさような月並主義を採らない、いわんやベルを鳴したり手を挙げたり、そんな面倒な事をする余裕はこの際少しもなきにおいてをやだ、ここにおいてかこのダンマリ転換を遂行するのも余にとっては万やむ・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・たとえ多くの人に記憶せられ、惜まれずとも、懐かしかった親が心に刻める深き記念、骨にも徹する痛切なる悲哀は寂しき死をも慰め得て余りあるとも思う。 最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれを・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 私は半月余り前、フランテンの欧洲航路を終えて帰った許りの所だった。船は、ドックに入っていた。 私は大分飲んでいた。時は蒸し暑くて、埃っぽい七月下旬の夕方、そうだ一九一二年頃だったと覚えている。読者よ! 予審調書じゃないんだから、余・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・』『余り醇いわ、兄さんは。』『私は軍人だよ。』『だけども、徴兵で為方がなしになった軍人よ。月給を貰って妻子を養ってる、軍人とは違うんでしょう。貴方は家の相続人ですわ。お国には阿母さんが唯ッた一人、兄さんを楽しみにして待ってらッし・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・ この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。 一言の返事もせずに、地び・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・宮寺抔都て人の多く集る所へ四十歳より内は余り行べからず。 婦人が内を治めて家事に心を用い、織縫績緝怠る可らずとは至極の教訓にして、如何にも婦人に至当の務なり。西洋の婦人には動もすれば衣服裁縫の法を知らざる者多し。此点に於ては我輩・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫