ある夏の日、笠をかぶった僧が二人、朝鮮平安南道竜岡郡桐隅里の田舎道を歩いていた。この二人はただの雲水ではない。実ははるばる日本から朝鮮の国を探りに来た加藤肥後守清正と小西摂津守行長とである。 二人はあたりを眺めながら、・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・――大勢の小天使は宣教師のまわりに読書の平安を護っている。勿論異教徒たる乗客の中には一人も小天使の見えるものはいない。しかし五六人の小天使は鍔の広い帽子の上に、逆立ちをしたり宙返りをしたり、いろいろの曲芸を演じている。と思うと肩の上へ目白押・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・っても自然と愛想好く、日々家へ帰って来る時立迎えると、こちらでもあちらを見る、あちらでもこちらを見る、イヤ、何も互にワザと見るというのでも無いが、自然と相見るその時に、夫の眼の中に和らかな心、「お前も平安、おれも平安、お互に仕合せだナア」と・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・で居られるこの機を逃さず、素知らぬ顔をして話題をかえ、ひそかに冷汗拭うて思うことには、ああ、かのドアの陰いまだ相見ぬ当家のお女中さんこそ、わが命の親、この笑いの波も灯のおかげ、どうやら順風の様子、一路平安を念じつつ綱を切ってするする出帆、題・・・ 太宰治 「喝采」
・・・ 私さえいなかったら、すくなくとも私の周囲の者たちが、平安に、落ちつくようになるのではあるまいか。私はことし既に三十九歳になるのであるが、私のこれまでの文筆に依って得た収入の全部は、私ひとりの遊びのために浪費して来たと言っても、敢えて過・・・ 太宰治 「父」
・・・そういうわずかな事によって人々の仕事の能率が現在よりもいくらかでも高められ、そうして人々の心持ちの平安はいくらかでも増し、行き詰まった心持ちと知恵とはなんらかの新しい転機を見いだしはしないだろうか。 小説や風聞録のようないわゆる閑文・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・如亭も江戸の人で生涯家なく山水の間に放吟し、文政の初に平安の客寓に死したのである。 遠山雲如の『墨水四時雑詠』には風俗史の資料となるべきものがある。島田筑波さんは既に何かの考証に関してこの詩集中の一律詩を引用しておられたのを、わたくしは・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・今この語の二字を取りて、かりにこれを平安の主義と名づく。人として平安を好むは、これをその天性というべきか、はた習慣というべきか。余は宗教の天然説を度外視する者なれば、天の約束というも、人為の習慣というも、そのへんはこれを人々の所見にまかして・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・蕪村の句のうちには時鳥柩をつかむ雲間より時鳥平安城をすぢかひに鞘ばしる友切丸や時鳥など極端にものしたるものあり。 桜の句は蕪村よりも芭蕉に多し。しかも桜のうつくしき趣を詠み出でたるは四方より花吹き入れて鳰・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・二十五種類の辞句のうちに、ただの一枚も、こころから日本の未来によびかけて、その平和と平安のために美しい、現実的な祝福をあたえたものがない。このことについて、わたしたちは感じるところがないだろうか。これらの人々のような立場になったとき、こうい・・・ 宮本百合子 「新しい潮」
出典:青空文庫