・・・眼は文字の上に落つれども瞳裏に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の灯籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には大きな華表が浮かばれぬ巨人の化物のごと・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・だが、困った事には、怨霊の手段としての、言論や文字や、棍棒は禁圧が出来たが、怨霊そのものについては? こいつは全で空気と同じく、あらゆる地面を蔽ってはいたが、捕えるのに往生した。 下の関行きの、二三等直通列車が走った。 彼は、長・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・音信も出来ないはずの音信が来て、初めから終いまで自分を思ッてくれることが書いてあッて、必ずお前を迎えるようにするからと、いつもの平田の書振りそのままの文字が一字一字読み下されるように見えて来る。かと思うと、自分はいつか岡山へ行ッていて、思ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・唯この文字に由て離縁の当否を断ず可らず。民法の親族編など参考にして説を定む可し。 右第一より七に至るまで種々の文句はあれども、詰る処婦人の権力を取縮めて運動を不自由にし、男子をして随意に妻を去るの余地を得せしめたるものと言うの外なし。然・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・この手紙が自己の空想の上に、自己の霊の上に、自然に強大に感作するのを見て、独り自ら娯しんでいる。 この手紙を書いた女はピエエル・オオビュルナンの記憶にはっきり残っている。この文字はマドレエヌ・スウルヂェエの手である。自分がイソダンで識っ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 文人の貧に処るは普通のことにして、彼らがいくばくか誇張的にその貧を文字に綴るもまた普通のことなり。しこうしてその文字の中には胸裏に蟠る不平の反応として厭世的または嘲俗的の語句を見るもまた普通のことなり。これ貧に安んずる者に非ずして貧に・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・一昨年修学旅行で〔以下数文字分空白〕「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。」「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」「おまえに悪口を云うの。」「うん、けれどもカムパネルラなん・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 戦争の永い間、私たちは声を奪われ、文字を奪われた生活を耐えて来た。その黙らされていた日々を、私たちの精神は、何も感じずに生きて来たというのだろうか。 時が来れば苔にさえ花は咲くものを。あの苦しさ、あの思いを、女として全生活の上に蒙・・・ 宮本百合子 「明日咲く花」
・・・予が久しく鴎外漁史という文字を署したことがなくて、福岡日日新聞社員にこれを拈出せられて一驚を喫したのもこれがためである。然るに昨年の暮におよんで、一社員はまた予をおとずれて、この新年の新刊のために何か書けと曰うた。その時の話に、敢て注文する・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・それは、文学が絶対に文字を使用しなければならぬと云う、此の犯すべからざる宿命によって、「文字の表現」の一語で良い。これは、いかなるものと雖も認めるであろう。 しかしながら、その次に何物よりも、われわれの最もより多く共通した問題となる・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
出典:青空文庫