・・・そしてこれが本当の道徳だとも思った。しかしだんだん種々の世故に遭遇するとともに、翻って考えると、その同情も、あらゆる意味で自分に近いものだけ濃厚になるのがたしかな事実である。して見るとこれもあまり大きなことは言えなくなる。同情する自分と同情・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・あなたでも同じですけれど、こんなになると、情合はまったく本当の親子と変りませんわ」「それだのにこの夏には、あの人の話はちょっとも出ませんでしたね」「そうでしたかね。おや、そうだったかしら」「そして私の事はもうすっかりあの人に話し・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・お寒いんですから、本当に、そのままで、お願いします。家の中には火の気が一つも無いのでございますから」「では、このままで失礼します」「どうぞ。そちらのお方も、どうぞ、そのままで」 男のひとがさきに、それから女のひとが、夫の部屋の六・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・中学校時代の日記は、空想たくさんで、どれが本当かうそかわからない。戯談に書いたり、のんきに戯れたりしていることばかりである。三十四五年――七八年代の青年を描こうと心がけた私は、かなりに種々なことを調べなければならなかった。そのころの青年でも・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・生徒が知らない事を無理に聞いている。本当の疑問のしかけ方は、相手が知っているか、あるいは知り得る事を聞き出す事でなければならない。それで、こういう罪過の行われるところでは大概教師の方が主な咎を蒙らなければならない。学級の出来栄えは教師の能力・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・がまた両方とも本当でもない。これに似寄りの定義は、あっても役に立たぬことはない。が、役に立つと同時に害をなす事も明かなんだから、開化の定義と云うものも、なるべくはそう云う不都合を含んでいないように致したいのが私の希望であります。が、そうする・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・つまりその本当の装幀は、一切読者自身の自由意志に任かすのである。それによつて読者は、正に彼自身の理解した「彼自身の著者」を、いつも「彼自身の趣味」によつて自由に完全に装幀することができるであらう。かくてこそ書物の著者は、正に読者の生活に「活・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・あの時がわたくしにとっては、どんなに幸福な時でございましたでしょう。本当にお互に物馴れない、窮屈らしい御交際をいたしました事ね。あの時邪魔の無い所で、久しく御一しょにいますうちに、あなたの人にすぐれていらっしゃること、珍らしい才子でいらっし・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・己はお前達の美に縛せられて、お前達を弄んだお蔭で、お前達の魂を仮面を隔てて感じるように思った代には、本当の人生の世界が己には霧の中に隠れてしまった。お前達が自分で真の泉の辺の真の花を摘んでいながら、己の体を取り巻いて、己の血を吸ったに違いな・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・昨日は二百十日だい。本当なら兄さんたちと一緒にずうっと北の方へ行ってるんだ。」「何して行かなかった。」「兄さんが呼びに来なかったからさ。」「何て云う、汝の兄※とこへね、きれいなはこやなぎの木を五本持って行ってあげるよ。いいだろう・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
出典:青空文庫