・・・小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。東の方は本郷と相対して富坂をひかえ、北は氷川の森を望んで極楽水へと下って行き、西は丘陵の延長が鐘の音で・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・当時都人の中にはカッフェーの義の何たるかを知らず、又これを呼ぼうとしても正確にFの音を発することのできない者も鮮くなかった。然るに二十年後の今日に到っては日本全国ビーヤホールの名を掲げて酒を估る店は一軒もなく、そうふも滑に Caf の発音を・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・西瓜は指で弾けば濁声を発するようになった。彼はそれを遠い市場に切り出した。昼間は壻の文造に番をさせて自分は天秤を担いで出た。後には馬を曳いて出た。文造はもう四十になった。太十は決して悪人ではないけれどいつも文造を頭ごなしにして居る。昼間のよ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もなかッた。 * * * 吉里は用事をつけてここ十日ばかり店を退いているのである。病気ではな・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・たとえば世に、商売工業の議論あり、物産製作の議論あり、華士族処分の議論あり、家産相続法の議論あり、宗旨の得失を論ずる者あり、教育の是非を議する者あり、学校設立の説を述る者あり、文字改革の議を発する者あり。 いずれも皆、国の文明のために重・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ちこれを裂きて擅にたんじきす。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、心柔にゅうなんにして、唯温水を憶う。時に俄に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等これを食す・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ 警告を発するならば、先ず運輸省の不手際に対して発せらるべきである。更には、存在の無意義さによって解消しつつある厚生省が、社会施設として、それぞれの地区の住民に欠くべからざる托児所、子供の遊場をこしらえる力さえなかったことに向って、警告・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・その中にも百姓の強壮な肺の臓から発する哄然たる笑声がおりおり高く起こるかと思うとおりおりまた、とある家の垣根に固く繋いである牝牛の長く呼ばわる声が別段に高く聞こえる。廐の臭いや牛乳の臭いや、枯れ草の臭い、及び汗の臭いが相和して、百姓に特有な・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 九郎右衛門が怒は発するや否や忽ち解けて、宇平のこの詞を聞いている間に、いつもの優しいおじさんになっていた。只何事をも強いて笑談に取りなす癖のおじが、珍らしく生真面目になっていただけである。 宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・芸術鑑賞がその根源を製作者の内生に発するごとく、偶像礼拝もまたその根源を偶像製作者の内生に発する。我々は祖先の内のこの製作者を、もっともっと尊敬しなければならない。 芸術家が独立していなかったというごときは、この際何ら問題にはならない。・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫