・・・他人の手に子供を委すべく余儀なくされても、母たるの自覚を失ってはならぬ。姿が見えると否とにかゝわらず子供の心は常に母親と共にあるのであるから、仕事を第一とし、子供を第二とするようなことがあってはならぬのであります。世には、我が子が、病気の時・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・ 故郷を捨てて東京に走り、その職業的有利さから東京に定住している作家、批評家が、両三日地方に出かけて、地方人に地方文学論に就て教えを垂れるという図は、ざらに見うけられたが、まず、色の黒い者に色の黒さを自覚させるために、わざわざ色白が狩り出さ・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・ 彼はすべての芸術も、芸術家も、現代にあっては根本の経済という観念の自覚の上に立たない以上、亡びるという持論から、私に長い説法をした。「君は何か芸術家というものを、何か特種な、経済なんてものの支配を超越した特別な世界のもののように考・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・その日私はいつもにない落ちつきと頭の澄明を自覚しながら会場へはいった。そして第一部の長いソナタを一小節も聴き落すまいとしながら聴き続けていった。それが終わったとき、私は自分をそのソナタの全感情のなかに没入させることができたことを感じた。私は・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・実に大友はお正の恋を知ると同時に自分のお正に対する情の意味を初めて自覚したのである。 暫時無言で二人は歩いていたが、大友は斯く感じると、言い難き哀情が胸を衝いて来る。「然しね、お正さん、貴女も一旦嫁いだからには惑わないで一生を送った・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・われわれがこの上もなく明らかな自覚を持って疑わぬ自由の意識と責任の感を、合理的に説明できないということは実に人性の構造の神秘というほかはない。 六 種々の視点への交感 教養としての倫理学研究は必ずしも一つの立場からの・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・彼は、それを自覚していた。こういう場合、嫌疑が、すぐ自分にかゝって来ることを彼は即座に、ピリッと感じた。「おかしなことになったぞ。」彼は云った。「この札は、栗島という一等看護卒が出したやつなんだ。俺れゃちゃんと覚えとる。五円札を出したん・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・北村君はある点まで自分の Brain Disease を自覚して居て、それに打勝とう打勝とうと努めた。北村君の天才は恐るべき生の不調和から閃き発して来た。で、種々な空想に失望したり、落胆したりして、それから空しい功名心も破れて――北村君自身・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・けれども、全部に負けた、きれいに負けたと素直に自覚して、不思議にフレッシュな気配を身辺に感じることも、たまにはあった。人間はここからだな、そう漠然と思うのであるが、さて、さしあたっては、なんの手がかりもなかった。 このごろは、かれも流石・・・ 太宰治 「花燭」
・・・脚気衝心の恐ろしいことを自覚してかれは戦慄した。どうしても免れることができぬのかと思った。と、いても立ってもいられなくなって、体がしびれて脚がすくんだ――おいおい泣きながら歩く。 野は平和である。赤い大きい日は地平線上に落ちんとして、空・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫