・・・ 門口に出ると、旆騎兵中尉が云った。「あれは誰だい。君に、君だの僕だのという、あの小男は。」「僕と話をする時、君僕と云う男を一々覚えていられるものか。」尤もである。竜騎兵中尉と君僕の交換をしている人はむやみに多いのだから。殊に少・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 演習に朝出る兵隊さんもこれにはいつも三舎を避けた。 たいてい洋服で、それもスコッチの毛の摩れてなくなった鳶色の古背広、上にはおったインバネスも羊羹色に黄ばんで、右の手には犬の頭のすぐ取れる安ステッキをつき、柄にない海老茶色の風呂敷包み・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・おれは「巴里へ行く汽車は何時に出るか」と問うてみた。 停車場へ出掛けた。首尾よく不喫烟室に乗り込むまではよかったが、おれはそこで捕縛せられた。 おれは五時間の予審を受けた。何もかも白状した。しかし裁判官達には、おれがなぜそんな事をし・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・講義をすまして廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。宅へ帰ると世界中の学者や素人から色々の質問や註文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・酒のお酌や飯の給仕に出るのがその綾子さんで、どうも様子が可怪しいと思ってるてえと、やがてのこと阿母さんの口から縁談の話が出た。けど秋山少尉は考えておきますと、然いうだけで、何遍話をしても諾といわない。 そこで阿母さんも不思議に思って、娘・・・ 徳田秋声 「躯」
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・腰から煙草入れをとり出すと一服点けて吸いこんだが、こんどは激しく噎せて咳き入りながら、それでも涙の出る眼をこすりながら呟いた。「なァ、いまもっといい肥料をやるぞい――」 やがて善ニョムさんは、ソロソロ立ち上ると、肥笊に肥料を分けて、・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・根津の社前より不忍池の北端に出る陋巷は即宮永町である。電車線路のいまだ布設せられなかった頃、わたくしは此のあたりの裏町の光景に興味を覚えて之を拙作の小説歓楽というものの中に記述したことがあった。 明治四十二三年の頃鴎外先生は学生時代のむ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・以前奉公して居た頃も稀には若い衆に跟いて夜遊びに出ることもあった。彼も他人のするように手拭かぶって跟いて行った。帰る時にはぽさぽさとして独であった。若い衆はみんな自分の女を見つけると彼を棄ててそこらの藪や林へこそこそと隠れて畢う。太十はどの・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ やがて三たび馬の嘶く音がして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿を下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に倚りて、かの人の出るを遅しと待つ。黒き馬の鼻面が下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなる・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫