・・・水のながれはやがて西東に走る一条の道路に出てここに再び橋がかけられている。道の両側には生垣をめぐらし倉庫をかまえた農家が立並び、堤には桟橋が掛けられ、小舟が幾艘も繋がれている。 遥に水の行衛を眺めると、来路と同じく水田がひろがっているが・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・恐る恐る高き台を見上げたる行人は耳を掩うて走る。 シャロットの女の織るは不断のはたである。草むらの萌草の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪の・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪感が走るほどである。その頃の生徒や教師に対して、一人一人にみな復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ、苛められ、仲間はずれにされ通して来た。小学校から中学校へかけ、学生時代の僕の過去は、今から考・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・廊下を走る草履が忙しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰めた。 ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・けだし学者のために安身の地をつくりてその政談に走るをとどむるは、また燃料を除くの一法なり。 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・ 自動車がセエヌ河に沿うて走る間オオビュルナンはこんな事を考えた。「三十三年に六年を足せば三十九年になる。マドレエヌは年増としてはまだ若い方だ。察するに今度のような突飛な事をしたのは、今に四十になると思ったからではあるまいか。夫が不実を・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・見下せば千仭の絶壁鳥の音も聞こえず、足下に連なる山また山南濃州に向て走る、とでもいいそうなこの壮快な景色の中を、馬一匹ヒョクリヒョクリと歩んでいる、余は馬上にあって口を紫にしているなどは、実に愉快でたまらなかった。茱萸はとうとう尽きてしまっ・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄を右手にかかえて走るようにして出て来たのです。「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、「お早う。」と・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・記者その人々の存在は、社名入りの名刺とその旗を立てて走る自動車の威厳によって装われるようになったのであった。 最近十数年の間戦争を強行し、非常な迅さで崩壊の途を辿った今日までの日本で、新聞がどういうものであったかは、改めて云う必要さえも・・・ 宮本百合子 「明日への新聞」
・・・「馬が走るわ。捕えて騎ろうわ。和主は好みなさらぬか」「それ面白や。騎ろうぞや。すわやこなたへ近づくよ」 二人は馬に騎ろうと思ッて、近づく群をよく視ればこれは野馬の簇ではなくて、大変だ、敵、足利の騎馬武者だ。「はッし、ぬかッた・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫