・・・ 鍬は音を立てないように、しかしめまぐるしく、まだ固まり切らない墓土を撥ね返した。 安岡の空な眼はこれを見ていた。彼はいつの間にか陸から切り離された、流氷の上にいるように感じた。 深谷は何をするのだろう? そんなにセコチャンと親・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・と、西宮は繰り返し、「もう、そんな間はないんだよ」「えッ。いつ故郷へ立発んですッて」と、吉里は膝を進めて西宮を見つめた。「新橋の、明日の夜汽車で」と、西宮は言いにくそうである。「えッ、明日の……」と、吉里の顔色は変ッた。西宮を見・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・若しも妻の不幸に反して夫が癩病に罹りたらば如何せん。妻は之を見棄てゝ颯々と家を去る可きや。我輩に於ては甚だ不同意なり。否な記者先生も或は不同意ならん。孝婦伝など見れば、何々女は貞操無比、夫の悪疾を看護して何十年一日の如し云々とて称賛したるも・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その抽んでたる所以は、他集の歌が豪も作者の感情を現し得ざるに反し、『万葉』の歌は善くこれを現したるにあり。他集が感情を現し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、『万葉』がこれを現し得たるはこれをありのままに写したるがためなり。曙覧・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・いまぼくが読み返してみてさえ実に意気地なく野蛮なような気のするところがたくさんあるのだ。ちょうど小学校の読本の村のことを書いたところのようにじつにうそらしくてわざとらしくていやなところがあるのだ。けれどもぼくのはほんとうだから仕方ない。ぼく・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ ふき子が伸びをするように胸を反して椅子から立ちながら、「みんな紅茶のみたくない?」「賛成!」 忠一が悲痛らしく眉を顰めて、「何にしろ、蝦姑だろうね」といった。「全くさ」 大きな声で、廊下から篤介が怒鳴った。・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・』と繰り返して言って、立ち去った。 そしてかれは伍長に従って行った。 市長は安楽椅子にもたれて、彼を待っていた。この市長というは土地の名家で身の丈高く辞令に富んだ威厳のある人物であった。『アウシュコルン、』かれは言った、『今・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・これに反してもし自分が殉死を許さずにおいて、彼らが生きながらえていたら、どうであろうか。家中一同は彼らを死ぬべきときに死なぬものとし、恩知らずとし、卑怯者としてともに歯せぬであろう。それだけならば、彼らもあるいは忍んで命を光尚に捧げるときの・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それに反して、女房ユリアが夜明かしをして自分で縫った黒の喪服を着て、墓の前に立ったと云うのは事実である。公園中に一しょに住んでいただけの人は皆集まっていて、ユリアを慰めた。その詞はざっとこんな物であった。「神の徳は大きい。お前さんをいじめた・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
どこかで計画しているだろうと思うようなこと、想像で計り知られるようなこと、実際これはこうなる、あれはああなると思うような何んでもない、簡単なことが渦巻き返して来ると、ルーレットの盤の停止点を見詰めるように、停るまでは動きが・・・ 横光利一 「鵜飼」
出典:青空文庫