・・・けれども僕等は上総の海に、――と言うよりもむしろ暮れかかった夏に未練を持っていたのだった。 海には僕等の来た頃は勿論、きのうさえまだ七八人の男女は浪乗りなどを試みていた。しかしきょうは人かげもなければ、海水浴区域を指定する赤旗も立ってい・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・しかも、金無垢の煙管にさえ、愛着のなかった斉広が、銀の煙管をくれてやるのに、未練のあるべき筈はない。彼は、請われるままに、惜し気もなく煙管を投げてやった。しまいには、登城した時に、煙管をやるのか、煙管をやるために登城するのか、彼自身にも判別・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・そしたら俺しもお前に未練なく兜を脱ぐがな」 父のこの言葉ははっしと彼の心の真唯中を割って過ぎた。実際彼は刃のようなひやっとしたものを肉体のどこかに感じたように思った。そして凝り上がるほど肩をそびやかして興奮していた自分を後ろめたく見いだ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・クララはふとその宝玉に未練を覚えた。その一つ一つにはそれぞれの思出がつきまつわっていた。クララは小箱の蓋に軽い接吻を与えて元の通りにしまいこんだ。淋しい花嫁の身じたくは静かな夜の中に淋しく終った。その中に心は段々落着いて力を得て行った。こん・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 詩を書いていた時分に対する回想は、未練から哀傷となり、哀傷から自嘲となった。人の詩を読む興味もまったく失われた。眼を瞑ったようなつもりで生活というものの中へ深入りしていく気持は、時としてち・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・けれども、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、もっと直截に申せば、狂乱があったのです。 狂気が。」 と吻と息して、……「汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなり・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・「いいえね、未練が出ちゃあ悪いから、もうあの声を聞くまいと思って。……」 叔母は涙の声を飲みぬ。 謙三郎は羞じたる色あり。これが答はなさずして、胸の間の釦鈕を懸けつ。「さようなら参ります。」 とつかつかと書斎を出でぬ。叔・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ 深田の方でも娘が意外の未練に引かされて、今一度親類の者を迎えにやろうかとの評議があったけれど、女親なる人がとても駄目だからと言い切って、話はいよいよ離別と決定してしまった。 上総は春が早い。人の見る所にも見ない所にも梅は盛りである・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・世の中が楽しいなぞという未練が残ってる間は、決して出来るものじゃアない。軍紀とか、命令とかいうもので圧迫に圧迫を加えられたあげく、これじゃアたまらないと気がつく個人が、夢中になって、盲進するのだ。その盲進が戦争の滋養物である様に、君の現在で・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・かの女の浅はかな性質としては、もう、国府津に足を洗うのは――はたしてきょう、あすのことだか、どうだか分りもしないのに――大丈夫と思い込み、跡は野となれ、山となれ的に楽観していて、田島に対しもし未練がありとすれば、ただ行きがけの駄賃として二十・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫