・・・「そんなら、お前さんはもう未練はないのかい――あの小竹の古い店の暖簾に」 それを聞いて見たいばかりにお三輪はわざわざ浦和から出て来たようなものであった。 お三輪は眼に一ぱい涙をためながら、いそがしそうな新七の側を離れて、・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・綺麗な貝殻だから、未練にもまた拾って行きたくなる。あるだけは残らず拾ったけれどやっと、片手に充ちるほどしかない。 下りてみると章坊が淋しそうに山羊の檻を覗いて立っている。「兄さんどこへ行ったの」と聞く。「おい、貝殻をやろうか章坊・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・いこと、詩はいよいよ下手くそを極めて読むに堪えないこと、東北の寒村などに生れた者には高貴優雅な詩など書けるわけは絶対に無いこと、あの顔を見よ、どだい詩人の顔でない、生活のだらしなさ、きたならしさ、卑怯未練、このような無学のルンペン詩人のうろ・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・私は臆病ではあったが未練ではなかったのだと思っている。だから自分の臆病を別に恥ずかしいとは思っていないのである。 この年取った、そして、少しばかり風変りな科学者のこの話は、子供を教育する親達にも何かの参考になりそうである。また同時にすべ・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・したがって従来経験し尽した甲の波には衣を脱いだ蛇と同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。のみならず新たに移った乙の波に揉まれながら毫も借り着をして世間体を繕っているという感が起らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・ 吉里はしばらく考え、「あんまり未練らしいけれどもね、後生ですから、明日にも、も一遍連れて来て下さいよ」と、顔を赧くしながら西宮を見る。「もう一遍」「ええ。故郷へ発程までに、もう一遍御一緒に来て下さいよ、後生ですから」「もう・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・思想じゃ人生の意義は解らんという結論までにゃ疾くに達しているくせに、まだまだ思想に未練を残して、やはり其から蝉脱することが出来ずに居るのが今の有様だ。文学が精神的の人物の活動だというが、その「精神」が何となく有り難く見えるのは、その余弊を受・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・ 薄い毛を未練らしく小さい丸髷にして、鼠色のメリンスの衿を、町方の女房のする様に沢山出して、ぬいた、お金の、年にそぐわない厭味たっぷりの姿を見るとすぐお君は、無理な微笑をして、 お帰りやすと云った。 一通り部屋の中を・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・それにつけても未練らしいかは知らぬが、門出なされた時から今日までははや七日じゃに、七日目にこう胸がさわぐとは……打ち出せば愚痴めいたと言われ……おお雁よ。雁を見てなげいたという話は真に……雁、雁は翼あって……のう」 だが身贔負で、なお幾・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ やがて私は未練らしく頭の上の時刻表を見上げた。そうして「おや」と思った。そこには次の汽車との間に今までなかったはずの汽車の時間が掲げてあるのである。私はいくらか救われたような感じであたりを見回した。なるほど大きな掲示が出ている。その臨・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫