かのうえいとく【狩野永徳】
[1543〜1590]安土桃山時代の画家。名は州信 (くにのぶ) 。松栄(直信)の子。祖父元信の期待を一身に受け、早くから画才を発揮。織田・豊臣氏に仕え、安土城・大坂城・聚楽第 (じゅらくだい) などの障壁画に筆をふるった。豪壮華麗な桃山障壁画様式を確立し、また狩野派全盛の基礎をつくった。
かのうこうきち【狩野亨吉】
[1865〜1942]哲学者・思想家。秋田の生まれ。一高校長。京都大学初代文科大学長。日本の自然科学思想史の開拓者で、安藤昌益らを発掘。
かのうさんせつ【狩野山雪】
[1590〜1651]江戸前期の画家。肥前の人。名は光家。通称、平四郎。狩野山楽の門弟で、のち養子となる。理知的な構成の装飾画に独自の造形性を示した。
かのうさんらく【狩野山楽】
[1559〜1635]安土桃山時代から江戸初期にかけての画家。近江 (おうみ) の人。名は光頼。豊臣秀吉に画才を認められ、狩野永徳に学んで、豊臣・徳川家関係の障壁画を数多く描いた。画風は桃山障壁画様式の豪壮さに装飾性を加えたもの。京にとどまり、京狩野派の祖となった。
かのうたんゆう【狩野探幽】
[1602〜1674]江戸初期の画家。鍛冶橋狩野派の祖。京都の人。名は守信。幼名、采女 (うねめ) 。孝信の長男。永徳の孫。江戸に出て幕府御用絵師となり、桃山時代の豪壮豪麗な様式に対して、瀟洒 (しょうしゃ) 、淡白な画風を特色とし、江戸狩野派繁栄の基礎を築いた。
かのうつねのぶ【狩野常信】
[1636〜1713]江戸前期の画家。尚信 (なおのぶ) の長男で、木挽町 (こびきちょう) 狩野家2代目。探幽没後の狩野派を代表。古画の模写にも努め、「常信縮図」は貴重な資料。
かのうなおのぶ【狩野尚信】
[1607〜1650]江戸初期の画家。京都の人。木挽町 (こびきちょう) 狩野家の祖。通称、主馬。探幽の弟。江戸に出て幕府御用絵師となった。
かのうは【狩野派】
日本画の一流派。室町中期に起こり、武家政権の庇護のもとに、日本画の主流を占めつつ、江戸時代を通じて将軍家御用絵師としての家業を世襲した。始祖の正信は、禅僧の宋元画を継いで水墨画を主とし、その子の元信は大和絵の画法を取り入れ、力強い装飾性をもって武家の好みに投じた。孫の永徳は織田信長・豊臣秀吉に仕えて安土桃山時代の障壁画を代表。豊臣氏滅亡ののちは、徳川家御用絵師となり、永徳の孫の探幽に至って、江戸狩野派の基礎は不動のものとなった。その門系から狩野芳崖 (ほうがい) ・橋本雅邦が出ている。
かのうほうがい【狩野芳崖】
[1828〜1888]日本画家。山口の生まれ。幼名、幸太郎。別号、松隣・勝海など。狩野雅信に学び、狩野派の伝統を受け継ぎ、明治初期、フェノロサに見いだされ、日本画革新運動の強力な推進者となった。東京美術学校創立に尽力。絶筆「悲母観音」は近代日本画の代表作。
かのうまさのぶ【狩野正信】
[1434〜1530]室町中期の画家。伊豆の人。狩野派の祖。師の宗湛 (そうたん) の跡を継いで室町幕府の御用絵師となり、水墨画を中心とする漢画と大和絵を使い分け、その現実的で平明な画風が好まれて、狩野派の基礎を築いた。