出典:gooニュース
【中日】「豊臣秀吉が言っていた」立浪監督、鬼門甲子園から始まる後半戦へ、名言になぞらえ巻き返し誓う「やれることをしっかりと」
中日の立浪和義監督(54)が25日、天下を統一した豊臣秀吉の名言「負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ」になぞらえながら、後半戦の巻き返しを誓った。チームは借金8で5位。今季未勝利の甲子園からのスタートになるが、逆境をはねのけ再び上昇気流に乗る。 残り53試合。クライマックスシリーズ(CS)出場圏内の3位・DeNAまで5・5差。
「回数じゃない」竹中直人、5度目の豊臣秀吉役に「何度演じようが…」2年後に古希、元気の秘訣は「愛がなきゃ!」
26日公開「もしも徳川家康が総理大臣になったら」俳優や監督、執筆など多彩な才能を発揮している竹中直人(68)が映像作品で5度目の豊臣秀吉役を演じた。26日公開の浜辺美波主演の映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」(武内英樹監督)の撮影秘話や「秀吉への思い」について、話を聞いた。
晩年の豊臣秀吉の狂気がよくわかる…一度は跡継ぎと認めた甥の秀次とその家族に対する酷すぎる仕打ち
■豊臣秀頼の父親は誰だったのか 秀吉には多くの側室がいたが、中でももっとも知られているのが浅井長政とお市の間に生まれた茶々(のちの淀殿)である。秀吉と茶々が結婚したのは、天正16年(1588)のことである。そして、文禄2年(1593)に2人の間に生まれたのが、次男の秀頼である。 秀吉没後、秀頼は豊臣家を継承し、大坂の陣で徳川家康に敗れて自害した。
もっと調べる
とよとみひでつぐ【豊臣秀次】
[1568〜1595]安土桃山時代の武将。秀吉の甥 (おい) 。天正19年(1591)秀吉の養子となり、ついで関白となった。秀頼誕生後は秀吉の寵を失い、高野山に追放されて、自殺を命ぜられた。秀吉との関係悪化に伴い、凶暴な行為が多かったので、殺生関白とよばれた。
とよとみひでよし【豊臣秀吉】
[1536〜1598]安土桃山時代の武将。尾張の人。幼名、日吉丸。初名、木下藤吉郎。織田信長に仕え、戦功をたて、羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一。この間、天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり、豊臣を賜姓。また、検地・刀狩りなどを行い、兵農分離を促進した。のち、明国征服を志して朝鮮に出兵したが、戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。豊太閤。
とよとみひでより【豊臣秀頼】
[1593〜1615]安土桃山時代の武将。秀吉の次男。6歳で家督を相続、前田利家に養育されたが、関ヶ原の戦いののち、摂津・河内 (かわち) ・和泉 (いずみ) 60余万石の大名におとされた。のち、徳川秀忠の娘千姫と結婚したが、大坂夏の陣で敗れ、母の淀君とともに自殺。
出典:教えて!goo