たちばななんけい【橘南谿】
[1753〜1805]江戸中期の医者・文人。伊勢の人。本名、宮川春暉 (みやがわはるき) 。字 (あざな) は恵風。別号、梅仙。京都で漢方医学を学び、文学にも造詣が深い。全国を遍歴して「西遊記」「東遊記」を著し、医学上の創見も多い。著「傷寒外伝」など。
たちばなのかちこ【橘嘉智子】
[786〜850]嵯峨天皇の皇后。仏法への信仰があつく、京都嵯峨に檀林寺を建てたので、世に檀林皇后という。橘氏の私学として学館院を設立。
たちばなのならまろ【橘奈良麻呂】
[?〜757]奈良時代の貴族。諸兄 (もろえ) の子。父の死後、藤原仲麻呂との対立から騒乱の主謀者として捕らえられ、獄死したとされる。
たちばなのなりすえ【橘成季】
鎌倉中期の文学者。諸兄 (もろえ) の末裔光季の養子といわれる。伊賀守。文学・音楽にすぐれ、建長6年(1254)「古今著聞集」を編集した。生没年未詳。
たちばなのはやなり【橘逸勢】
[?〜842]平安初期の官人・能書家。奈良麻呂の孫。遣唐留学生として入唐。帰国後、承和の変に連座して捕らえられ、伊豆へ流される途中没した。三筆の一人であるが、真跡と断定できるものは残っていない。
たちばなのみちよ【橘三千代】
⇒県犬養橘三千代 (あがたいぬかいのたちばなのみちよ)
たちばなのもろえ【橘諸兄】
[684〜757]奈良前期の官人・歌人。母は県犬養橘三千代 (あがたいぬかいのたちばなのみちよ) 。光明皇后の異父兄。初め葛城 (かつらぎ) 王。のち、臣籍に降り、橘宿禰 (すくね) 諸兄と改めた。藤原不比等の四子が病没したのち右大臣・左大臣に昇り、政権を握ったが、藤原仲麻呂の台頭後は振るわなかった。
たちばなふじんずし【橘夫人厨子】
光明皇后の母、橘三千代の念持仏と伝える阿弥陀三尊像を安置する木造の厨子。法隆寺金堂天蓋 (てんがい) を模した天蓋付きの龕 (がん) と須弥座 (しゅみざ) および台脚からなり、高さ約2.7メートル。三尊・蓮池などの金工技術、黒漆塗りの龕の扉に金泥 (きんでい) で描かれた線描画や須弥座の彩色画などは奈良初期の貴重な遺例。
たちばなもどき【橘擬】
バラ科の常緑低木。枝にはとげがあり、長楕円形の葉を密につける。初夏、黄白色の花が密生して咲き、実は平たい球形で橙黄色に熟す。中国の原産。庭木や生け垣などにする。ピラカンサ。ほそばのときわさんざし。
たちばなもりべ【橘守部】
[1781〜1849]江戸後期の国学者・歌人。伊勢の人。本姓は飯田。号、池庵・椎本 (しいがもと) など。江戸で独学して古典・古語に通じ、本居宣長 (もとおりのりなが) に対抗して独自の学説を立てた。著「稜威道別 (いつのちわき) 」「万葉集檜嬬手 (ひのつまで) 」「助辞本義一覧」など。