出典:青空文庫
・・・それから自分も裸のまま、左の手には裸蝋燭をともし、右の手には鏡を執って、お敏の前へ立ちはだかりながら、口の内に秘密の呪文を念じて、鏡を相手につきつけつきつけ、一心不乱に祈念をこめる――これだけでも普通の女なら、気を失うのに違いありませんが、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・スコッチの旅行服の襟が首から離れるほど胸を落として、一心不乱に考えごとをしながらも、気ぜわしなくこんな注意をするような父だった。 停車場には農場の監督と、五、六人の年嵩な小作人とが出迎えていた。彼らはいずれも、古手拭と煙草道具と背負い繩・・・ 有島武郎 「親子」
・・・クララはとんぼがえりを打って落ちながら一心不乱に聖母を念じた。 ふと光ったものが眼の前を過ぎて通ったと思った。と、その両肱は棚のようなものに支えられて、膝がしらも堅い足場を得ていた。クララは改悛者のように啜泣きながら、棚らしいものの上に・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・――それは小児たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻めて・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・そこで僕は思った、僕に天才があろうがなかろうが、成功しようがしなかろうがそんな事は今顧みるに当たらない何でもこのままで一心不乱にやればいいんだ、というふうに考えて来ると気がせいせいして来た。 昨日もちょうどそんな事を考えながら歩いて、つ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・と、座敷のまん中で叔父叔母さし向かいの囲碁最中! 叔父はちょっと武を見て、微笑って目で挨拶したばかり。叔母は、「徳さん少し待っておくれ。じき勝負がつくから」と一心不乱の体である。「どうかごゆっくり。」と徳さんの武もこのほかに挨拶のし・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・女のほうへ背をむけたままで、一心不乱に本を読む。」「荷風は、すこし、くさくないかね?」「それじゃ、バイブルだ。」「気持は、判るのだがね。」「いっそ、草双紙ふうのものがいいかな?」「君、その本は重大だよ。ゆっくり考えてみよ・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・そんな時でも恐ろしく真面目で沈鬱で一心不乱になっているように見える。こちらの二階で話し声がしていても少しも目もくれず、根気よく同じような声を出して子供をゆすぶっている。しかし子供が可愛くてならぬという風でもない。ただ一心に何事かに凝り固まっ・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
一心不乱と云う事を、目に見えぬ怪力をかり、縹緲たる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た。これを日本の物語に書き下さなかったのはこの趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うたからである。浅学にて古代騎士の状況に通ぜず、従・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」