出典:青空文庫
・・・であって、短い時間では有ったが、非常に長い時間のように思われて、女は其の無言無物の寂寞の苦に、十万億土を通るというのは斯様いうものででもあるかと苦んでいたので、今、「コレ」と云われると、それが厳しい叱咤であろうと何であろうと、活路を死中・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・どおん、どおん、と春の土の底の底から、まるで十万億土から響いて来るように、幽かな、けれども、おそろしく幅のひろい、まるで地獄の底で大きな大きな太鼓でも打ち鳴らしているような、おどろおどろした物音が、絶え間なく響いて来て、私には、その恐しい物・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・笑いごとじゃない。十万億土、奈落の底まで私は落ちた。洗っても、洗っても、私は、断じて昔の私ではない。一瞬間で、私はこんなに無残に落ちてしまった。夢のようだ。ああ、夢であってくれたら。いやいや、夢ではない。ゆきさんは、たしかにあのとき、はっと・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・いまはもう、いっそ、母のほうで、そのチベットとやらの十万億土へ行ってしまいたい気持である。どのように言ってみても、勝治は初志をひるがえさず、ひるがえすどころか、いよいよ自己の悲壮の決意を固めるばかりである。母は窮した。まっくらな気持で、父に・・・ 太宰治 「花火」
・・・いちばん目に止るのは足の方の鴨居に笠と簑とを吊して笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外が『ホトトギス』へ掲げた小園で奥行四間もあろうか萩の本を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。まいかいは花が落・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・ヤ音がするゴーというのは汽車のようだがこれが十万億土を横貫したという汽車かも知れない。それなら時々地獄極楽を見物にいって気晴らしするもおつだが、しかし方角が分らないテ。めったに闇の中を歩行いて血の池なんかに落ちようものなら百年目だ、こんな事・・・ 正岡子規 「墓」