出典:青空文庫
・・・家を焼かれた八道の民は親は子を失い、夫は妻を奪われ、右往左往に逃げ惑った。京城はすでに陥った。平壌も今は王土ではない。宣祖王はやっと義州へ走り、大明の援軍を待ちわびている。もしこのまま手をつかねて倭軍の蹂躙に任せていたとすれば、美しい八道の・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・蟹や寄生貝は眩ゆい干潟を右往左往に歩いている。浪は今彼の前へ一ふさの海草を運んで来た。あの喇叭に似ているのもやはり法螺貝と云うのであろうか? この砂の中に隠れているのは浅蜊と云う貝に違いない。…… 保吉の享楽は壮大だった。けれどもこう云・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・が、それは瞬く暇で、後はただ風雨の中に、池をめぐった桜の花がまっ暗な空へ飛ぶのばかり見えたと申す事でございます――度を失った見物が右往左往に逃げ惑って、池にも劣らない人波を稲妻の下で打たせた事は、今更別にくだくだしく申し上るまでもございます・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ わっと、けたたましく絶叫して、石段の麓を、右往左往に、人数は五六十、飛んだろう。 赤沼の三郎は、手をついた――もうこうまいる、姫神様。……「愛想のなさよ。撫子も、百合も、あるけれど、活きた花を手折ろうより、この一折持っていきゃ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思うのか、右往左往と狂い廻る。もとより溝も道路も判らぬのである。たちまち一頭は溝に落ちてますます狂い出す。一頭はひた走りに先に進む。自分は二頭の手綱を採って、ほとんど制馭の道を失った。そうし・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・――人々はもはや耳かきですくうほどの理性すら無くしてしまい、場内を黒く走る風にふと寒々と吹かれて右往左往する表情は、何か狂気じみていた。 寺田はしかしそんなあたりの空気にひとり超然として、惑いも迷いもせず、朝の最初の競走から1の番号の馬・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ら、カーキ色の軍服を着け、同じ色の軍帽をかむった兵士の一団と、垢に黒くなった百姓服を着け、縁のない頭巾をかむった男や、薄いキャラコの平常着を纏った女や、短衣をつけた子供、無帽の老人の群れが、村に蠢き、右往左往しているのを眺めていた。カーキ色・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・その声を聞き、忽ち先を争って、手のある限りの者は右往左往、おのれの分前を奪い合った。農民は原野に境界の杙を打ち、其処を耕して田畑となした時、地主がふところ手して出て来て、さて嘯いた。「その七割は俺のものだ。」また、商人は倉庫に満す物貨を集め・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・アンチテエゼの成立が、その成立の見透しが、甚だややこしく、あいまいになって来て、自己のかねて隠し持ったる唯物論的弁証法の切れ味も、なんだか心細くなり、狼狽して右往左往している一群の知識人のためにも、この全体主義哲学は、その世界観、その認識論・・・ 太宰治 「多頭蛇哲学」
・・・き上り、ちょんと廊下の欄干にとまって、嘴で羽をかいつくろい、翼をひろげて危げに飛び立ち、いましも斜陽を一ぱい帆に浴びて湖畔を通る舟の上に、むらがり噪いで肉片の饗応にあずかっている数百の神烏にまじって、右往左往し、舟子の投げ上げる肉片を上手に・・・ 太宰治 「竹青」