・・・戦争の巷に入れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今始めて、病院を退院したことの愚をひしと胸に思い当たった。病院から後送されるようにすればよかった……と思った。 もうだめだ、万事休す、遁れるに路がない。消極的の悲観が恐ろしい力でその胸を襲・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ すべての案内者も時々これに類した誤解から起こる非難を受ける恐れのある事を覚悟しなければならない。たとえば、案内者が「この川を渡る橋がない」という意味で、渡れないと言ったのを船で渡っておいて「このとおり渡れるではないか」と言われるのはど・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・彼らの或者はもはや最後の手段に訴える外はないと覚悟して、幽霊のような企がふらふらと浮いて来た。短気はわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。しかし誰が彼らをヤケにならしめたか。法律の眼から何と見ても、天の眼からは彼らは乱・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・然もその害毒を恐れざる多少の覚悟と勇気とがあって、初めて酒の徳を知り得るのである。伝聞く北米合衆国においては亜米利加印甸人に対して絶対に火酒を売る事を禁ずるは、印甸人の一度酔えば忽ち狂暴なる野獣と変ずるがためである。印甸人の神経は浅酌微酔の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・カーライルは書物の上でこそ自分独りわかったような事をいうが、家をきめるには細君の助けに依らなくては駄目と覚悟をしたものと見えて、夫人の上京するまで手を束ねて待っていた。四五日すると夫人が来る。そこで今度は二人してまた東西南北を馳け廻った揚句・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・サア今度は覚悟を決めて来い」「オイ、兄弟俺はお前と喧嘩する気はないよ。俺は思い違いをしていたんだ。悪かったよ」「何だ! 思い違いだと。糞面白くもねえ。何を思い違えたんだい」「お前等三人は俺を威かしてここへ連れて来ただろう。そして・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・鯉はマナイタの上にのせられると動かなくなるといわれているが、それは覚悟を定めての上で、ドンコのようにどうされるのか知らないのとは、精神に雲泥の差がある。 河豚も醜魚だが、ドンコもあんまり恰好がよいとはいえない。しかし、味はなかなかよくサ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・よんどころなく覚悟を極め申し候。不便と御推もじ願い上げまいらせ候。平田さんに済み申さず候。西宮さんにも済み申さず候。お前さまにも済みませぬ。されど私こと誠の心は写真にて御推もじ下されたくくれぐれもねんじ上げまいらせ候。平田さんにも西宮さんに・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 世人往々この事実を知らずして、政治の思想要用なりといえば、たちまち政治家の有様を想像して、己れ自から政壇にのぼりて政をとるの用意し、生涯政事の事業をもって身を終らんと覚悟するもの多し。学問といえばたちまち大学者を想像して、生涯、書に対・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・右左をきょろきょろ見まわして、見えるほどのものは一々見逃すまいという覚悟である。しかしそれがためにかえって何も彼も見るあとから忘れてしまう。 暗い丈夫そうな門に「質屋」と書いてある。これは昔からいやな感じがする処だ。 竹垣の内に若木・・・ 正岡子規 「車上の春光」
出典:青空文庫