ふじわら‐の‐のぶふさ【藤原宣房】
[1258〜?]鎌倉末期の公卿。別名、万里小路(までのこうじ)宣房。後醍醐天皇の厚遇を受け、吉田定房・北畠親房とともに、後(のち)の三房(さんぼう)と称された。のち出家。日記「万一記(まんいつき...
ふじわら‐の‐のぶより【藤原信頼】
[1133〜1160]平安後期の公卿。保元の乱ののち後白河上皇の信任を得て院別当となる。源義朝と結んで平治の乱を起こしたが、平清盛に敗れ、六条河原で処刑された。
ふじわら‐の‐みちかね【藤原道兼】
[961〜995]平安中期の公卿。兼家の三男。兄道隆の死後関白に就任したがわずか7日で病没し、世に七日関白と称された。
ふじわら‐の‐みちたか【藤原道隆】
[953〜995]平安中期の公卿。兼家の長男。父の死後、弟道兼を退けて、摂政・関白となった。娘定子は一条天皇の皇后。中関白(なかのかんぱく)。
ふじわら‐の‐みちとし【藤原通俊】
[1047〜1099]平安中・後期の歌人。白河天皇の命により、「後拾遺集」を撰進。歌は「後拾遺集」などにみえる。
ふじわら‐の‐みちのり【藤原通憲】
[1106〜1160]平安後期の公卿。出家して法号を円空、のち信西(しんぜい)と称し、僧の身で後白河天皇の腹臣として活躍。平治の乱で捕らえられて処刑された。著に「本朝世紀」「法曹類林」などがある。
ふじわら‐の‐もととし【藤原基俊】
[1060ころ〜1142]平安後期の歌人・歌学者。歌道では、伝統派の中心人物で、源俊頼と対立した。万葉集に次点(訓点)をつけた一人。藤原俊成の師。編著「新撰朗詠集」、家集「基俊集」など。
ふじわら‐の‐ももかわ【藤原百川】
[732〜779]奈良後期の公卿。宇合(うまかい)の子。初名、雄田麻呂。称徳天皇の没後、光仁天皇を擁立して道鏡を追放し、山部親王(桓武天皇)の立太子を実現するなど、藤原氏発展のもとをつくった。
ふじわら‐の‐よしふさ【藤原良房】
[804〜872]平安前期の公卿。冬嗣の二男。通称、白河殿・染殿。嵯峨天皇の皇女潔姫を迎え、娘明子(あきらけいこ)を文徳天皇の妃とし、人臣で初の太政大臣。また、応天門の変後、摂政となった。「続日...
ふじわら‐の‐よりなが【藤原頼長】
[1120〜1156]平安後期の公卿。忠実の二男。通称、字治左大臣・悪左府。博識多才で父に愛され、兄の関白忠通と対立。崇徳上皇と結んで保元の乱を起こして敗死。日記「台記」がある。