出典:青空文庫
・・・だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄えながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るような冷酷な眼で眺めていた。すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・五分、十分、私は足袋と悪戦苦闘を続けた。やっと両方履き了えた。「さあ、どうぞ。」小坂氏は何事も無かったような落ちついた御態度で私を奥の座敷に案内した。小坂氏の夫人は既に御他界の様子で、何もかも小坂氏おひとりで処置なさっているらしかった。・・・ 太宰治 「佳日」
・・・のダメという事になりまして、私は詩壇に於いて失脚し、また、それまでの言語に絶した窮乏生活の悪戦苦闘にも疲れ果て、ついに秋風と共に単身都落ちというだらし無い運命に立ちいたったのでございます。 つまり私という老人は、何一つ見るべきところが無・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・そのほかにも、かれ、蚊帳吊るため部屋の四隅に打ちこまれてある三寸くぎ抜かばやと、もともと四尺八寸の小女、高所の釘と背のびしながらの悪戦苦闘、ちらと拝見したこともございました。 いま庭の草むしっている家人の姿を、われ籐椅子に寝ころんだまま・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・けれども、メリメにしろ、ゴオゴリにしろ、――また、いま、ふと頗る唐突に思い浮んだのであるが、シャトオブリアン、パスカルほどの大人物でも、――どのように、その時代の世評を顧慮し、人しれぬ悪戦苦闘をつづけたことか、私はそれに気がつき、涙ぐましく・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・一八二五年、ロシアでは有名な十二月党の反乱が悲劇的終結をとげた年、愈々この出版事業にとりかかった二十六歳のバルザックは、自分から活字屋になり、印刷屋になり、本屋にまでなって悪戦苦闘したのであったが、この金銭争奪で未熟な事業家バルザックがその・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・それから告白など。悪戦苦闘手記にかたよらず、人はいろいろむずかしさを通して、人間らしくどう生きるかということをひろいところから考えに訴えるように。一、「きけわだつみのこえ」に「読みとりかた」がつけられていて、はじめて現代生活の意味がいき・・・ 宮本百合子 「「未亡人の手記」選後評」
・・・世間の思わくの前に苦しむのであって、自分の良心の前に苦しむのでない、と言われ得るほど、他人の気を兼ねる習癖が、作者藤村の個性にこびりついていればこそ、藤村は『新生』のために悪戦苦闘したのである。少年時代以来の藤村の苦労を、作品を通じて通観し・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」