みなもとのみつなか【源満仲】
[913〜997]平安中期の武将。経基の長男。鎮守府将軍。安和 (あんな) の変で源高明を失脚させ、藤原氏に協力して地位を確立。摂津国多田に住んで、多田源氏を称した。多田満仲。
みなもとのみつゆき【源光行】
[1163〜1244]鎌倉初期の学者。法名、寂因。和歌を藤原俊成に学ぶ。子の親行 (ちかゆき) とともに源氏物語(河内本)を校訂。著「蒙求和歌」。
みなもとのもろふさ【源師房】
[1008?〜1077]平安中期の公卿。村上天皇の皇子具平 (ともひら) 親王の子。源の姓を賜り、臣籍に降下。村上源氏の祖。土御門 (つちみかど) 右大臣と称された。のち太政大臣となったが、即日死去。詩文・和歌に長じた。著「叙位除目抄」、日記「土右記」。
みなもとのゆきいえ【源行家】
[?〜1186]平安末期の武将。為義の一〇男。通称、新宮十郎。以仁王 (もちひとおう) の平氏討伐の令旨を受けて、各地の武士に伝達。義仲とともに入京、のち、頼朝と不和になった義経に協力し、和泉で頼朝の兵に殺された。
みなもとのよしいえ【源義家】
[1039〜1106]平安後期の武将。頼義の長男。通称、八幡太郎。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち、のち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を鎮定。東国における源氏勢力の基盤をつくった。
みなもとのよしつね【源義経】
[1159〜1189]平安末期・鎌倉初期の武将。義朝の九男。母は常盤 (ときわ) 御前。幼名、牛若丸。平治の乱後、鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せた。兄頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、次いで平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦に破って全滅させた。のち、頼朝と不和になり、反逆を企てたが、失敗して奥州に逃れた。秀衡の死後、その子泰衡に襲われ、衣川の館 (たて) で自殺。悲劇の英雄として伝説化される。九郎判官。 村上元三の歴史小説。の生涯を描く。昭和27年(1952)から昭和30年(1955)にかけて全5巻を刊行。昭和41年(1966)にNHKでドラマ化された際には著者自身が脚本を担当した。
みなもとのよしとも【源義朝】
[1123〜1160]平安末期の武将。為義の長男。保元の乱で後白河天皇方に味方して勝利をおさめ、敵方の父為義ら一族を滅ぼした。のち、藤原信頼と結んで平治の乱を起こしたが、敗れて尾張で殺された。
みなもとのよしなか【源義仲】
[1154〜1184]平安末期の武将。為義の孫。幼名、駒王丸。木曽山中で育ち、木曽冠者と称される。以仁王 (もちひとおう) の平氏討伐の令旨を受けて、頼朝・行家に呼応して挙兵。平維盛を倶利伽羅峠で破り、京都に入って朝日将軍とよばれた。しかし後白河院と対立し、範頼・義経の追討を受け、近江 (おうみ) 国粟津で戦死。木曽義仲。
みなもとのよしひら【源義平】
[1141〜1160]平安末期の武将。義朝の長男。15歳で叔父義賢を倒して武名をあげ、悪源太と称された。平治の乱で父義朝に従って奮戦、敗れて美濃に逃れた。父の死後、京都に潜入して平清盛をねらったが、捕らえられて斬 (き) られた。
みなもとのよしみつ【源義光】
[1045〜1127]平安後期の武将。頼義の三男。通称、新羅三郎 (しんらさぶろう) 。弓術に長じ、笙 (しょう) をよくした。後三年の役に際し、官を辞して兄義家を助けて武功をあげた。